Vol.63 「学びて時にこれを習う」──結果を急がない、学びのよろこびを取り戻す大事さ
目次
はじめに ➤なぜ「場にいる」のに距離を感じるのか
勉強会やセミナーに参加しても、周囲が楽しそうに話していると、どこか自分だけが冷静になることがある。
一歩引いて全体を眺めてしまうのです。会話に入れないまま時間が過ぎるのは最早日常茶飯事です。
それはいわゆる「恥ずかしさ」とも違うし、むしろ、どこか「観察者」のような感覚でもあります。
こうした体験を、単なる「社交性の欠如」や「内向的性格」で片づけてしまうのは惜しいですね(*^^*)
こういった事を考えるときには、ある人が言うように
「積極的に動かない人は仕方ない」
とか、
「そういった性格だからあの人は仕方ない」
とか・・・
そんな、旧時代的で適当な分断を生む考え方は、あまりにマイナスでむしろコミュニティにとって害悪にすらなります。
ですから、むしろ、
「人がどのように他者とかかわり、学び、意味を作るか」
を考える上で、重要なヒントが隠されていると考える方が、前向きで建設的なのです。
今日は、そんなイベントや勉強会、セミナーやコミュニティであまり馴染めない人のためのTips・・あるいは、その人の周りにいる人たちのための参考になる記事を書けないか、資料も調べながら頑張りました(*^^*)
1. 感覚処理感受性(SPS)という見方
「感覚処理感受性(Sensory Processing Sensitivity, SPS)」は、「外部刺激や社会的刺激に対する感受性が異なる」という心理的特性を示しています。
高い感受性をもつ人(いわゆる HSP)は、音・光・人の表情などから多くの情報を受け取りやすく、処理が深くなる傾向をもっているそうです。
(Aron & Aron, 1997)
2014年の神経科学研究でも、SPS の高い人は社会的・情動的刺激に対して脳の活性が強くなることが報告されています。
(Acevedo et al., 2014, Brain a
また、SPS はストレス脆弱性であると同時に、支援的な環境下ではより強い学習効果や創造的反応を示す「環境感受性(Differential Susceptibility)」の一形態とも捉えられているそうです。
(Greven et al., 2019, Neurosci
まとめると・・・
にぎやかな場で冷静になるのは、単なる気分の問題ではなく、
「刺激量を制御しようとする脳の合理的反応」でもあるということ。
自分が「参加できない」と感じる瞬間には、実は脳内で情報過多を防ぐための調整が働いている可能性があるのです。
※一応、言及しておきますが、SPSは「幸福度、生活の質、および機能的困難に影響を与える重要な要因」であると考えられているもので、決してそれ自体が、何かの障がいであるかの印象を持つものではありません。
ちなみに、これを書いている自分のIQ自体は(自慢するのではありませんが)非常に高いため、一般的にギフテッドと呼ばれるカテゴリに入りますが、だからこそなかなか人と馴染めないと感じるところは多いようです。
2. 「周辺から関わる」という正統な参加
では、人はどのようにコミュニティに「入っていく」のでしょうか?
この問いに答えようとした人たちがいて、Wikipediaで、「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation, LPP)」の理論というものを見つけました。
正統的周辺参加
LPP では、新しく参加する人は最初から中心に飛び込むのではなく、
「周辺から観察し、小さな関与を重ねながら、徐々に共同体の一員になっていく」
と考えています。
これは、単なる消極性ではなく、学習の正統的な形態とされていますし、まあ・・・普通のことですよね。
例えば他には、医学生の臨床教育を分析した研究でも、学生は
- 「傍観から手伝いへ」
- 「観察から実践へ」
と、段階的に関与を深める過程を経ており、これが専門家としてのアイデンティティ形成に寄与することが示されています。
(Bates et al., 2022, Perspecti
ここまで、かなりAIにも頼りながら、一生懸命読みながら探求していますwww
ですので、周辺からゆっくりと始めることは、別に怠慢でもないし、やる気がないわけでもないのです。
そういった意味で、「中心に立たない参加」もまた、共同体にとって必要な位置でありうると考えられるということです。
よく考えなくても、コミュニティには様々な人が存在します。
それらは、「観察」や「記録」、声にならない「静かな対話」なども含まれていて、「外縁のまなざし」が、実際のところ、コミュニティ事態を支えていることが多い気がします。
3. リーダーとしての自分と、参加者としての自分
興味深いことに、私は自分が「コミュニティを主催する側」に立つとなると、こうした違和感をまったく感じたりはしません。
司会進行や、企画に集中しているとき・・・むしろ場のエネルギーを心地よく感じとり、自然に人とつながっていけることさえもあります。
ですが、「他者が作った場」に参加するなると、途端に同じ自分でも反応が変わってしまうのです。
それは、単純に主導権を持つか否かではなく、
「そのコミュニティの文脈を把握できるかどうか」
が、自分の安定感を左右しているのだと気づかされます。
この感覚を 上で書いたLPP の枠組みで見ると、私は
「中心に近い文脈では高い没入ができるが、他者の共同体ではまだ周辺的な参加段階にある」
と、冷静にありのまま言えるのです。それは矛盾とか怠慢とかではなく、むしろごく自然なことではあります。
人は場によって、中心にも周辺にも立ちます。その両方の立場を経験することで、コミュニティを多層的に理解できるようになるのでしょう。
反対に、誰もが中心に触れたりできるわけでもないので、そういった場合はずっと「参加者」あるいは「傍観者」のままであることも納得できます。
4. 誰にでも「ペース」があるということ
こうした経験を通して、やはり私が毎回強く感じるのは、「誰にでも、それぞれのペースがある」ということです。
- ある人は、即座に会話の輪に入っていける。
- ある人は、しばらく観察してから少しずつ関わる。
どちらも学びの形であり、参加のスタイルです。
重要なのは、そのペースを「自分自身がまず認めること」です。
「自分はもっと積極的でなければ」と焦る必要はありませんし、誰かに言われたとしても無理をする必要はありません。
刺激の処理速度も、社会的関与のリズムも、人それぞれ異なるのですから、自然でありのままでいればよいのです。
さらに、もし、もう一歩進めて考えるなら・・・
他者に対しても、自分とは異なるペースがあることを「認める姿勢」を持つことです。
※もちろん、馴染めない方の周囲の人にも求めたいところではあります。
コミュニティが成熟するとは、
「多様なリズムが共存し、互いに許容し合う状態」
を指すのだと考えています。
5. 対話のための小さな原則として列記
- 自分の反応を否定しない。冷静さは欠点ではなく、感受性の現れ。
- 他者の沈黙や距離も尊重する。それは無関心ではなく、観察の段階かもしれない。
- 周辺からの関わりも価値がある。見守りや記録、静かなサポートは、場の土台を支える。
- 誰かが盛り上がり、誰かが落ち着いている。その非対称性こそ、コミュニティのバランスであると考える。
まとめ ➤多様性を認め、対話するということ
場に馴染めないという感覚は、別に排除のしるしとかではありません。
それは、「多様なペースが交わる瞬間に生じる、自然なゆらぎ」のようなものです。
※そういえば、東京のとあるコミュニティにしばらく属していた時には、初めて来た人や周囲になかなか馴染めない人へのフォローや話し相手がとっても自分は好きで、そういった小さな「右手を差し出す行為」の大事さをよく噛みしめていました。
まとめていきますが、感覚処理感受性の理論を一つの例として出しましたが、ようするに、
「人はそれぞれ異なる刺激の閾値を持ち、異なるリズムで反応する」
ということです。
正統的周辺参加の理論を出したのも、関わりには段階と時間があることを、それぞれが再認識すると、よりよい関係性の構築ができると思ったからです。
だからこそ、コミュニティに求められるのは「全員が同じテンポで動くこと」ではありません。
異なるペースを認め合い、対話しながら共にいる姿勢こそが、本来の「共同体」の姿なのかもしれませんね(*^^*)
自分のペースを認めること。
そして、他者のペースを認めること。
そこからしか、ほんとうの対話は始まらない。
参考文献・関連資料
- Sensory Processing Sensitivity: A Review in the Light of the Evolution of Biological Responsivity
- The highly sensitive brain: an fMRI study of sensory processing sensitivity and response to others' emotions
- Sensory Processing Sensitivity in the context of Environmental Sensitivity: A critical review and development of research agenda
- Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation. Cambridge University Press.
- It’s how we practice that matters: professional identity formation and legitimate peripheral participation in medical students: a qualitative study
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