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土居郁男プロは高知放送が厳正なる審査をした登録専門家です

Vol.23 掛け算の順序問題と「学びの楽しさ」を守るという選択

土居郁男

土居郁男

テーマ:学びの本質

星と少年

(はじめに)掛け算の「順序」でテストはバツになるのか

小学校の算数のテストで、掛け算の式の「かける数」と「かけられる数」の順番が違っただけで不正解になるケースがあります。たとえば、問題文が「3人にリンゴを2個ずつ配るときの合計のリンゴの数」で、

  • 正解とされるのが 2 × 3
  • 3 × 2 と書いたら不正解

というような状況です。

しかし、生徒や教職ではない一般的な感覚からからすると「どちらでもよいのでは?」という気持ちがでてきますよね。
一方で、先生方の中には一定数「意味の違いがあるから順番は重要」と主張される方もいらっしゃいます。

この「掛け算の順序」問題は、長年にわたり教育現場で繰り返される議論の的だそうで、最近わたしもX上で見かけました。
この記事では、この問題の本質や、それをどう乗り越えるかについて考えてみたいと思います。

「真理」を追究する学問としての算数

算数(あるいは数学)は、一般的に「真理を追究する学問」と認識されることが多いように思います。

  • 同じ数を何回も足す=掛け算(同数累加)
  • 単位量 × いくつ分

というように、演算自体にちゃんと「定義」があり、「原理」があり、それを深く探究する姿勢が大切だということです。

しかし一方で、学ぶ側の子どもにとっての算数は、「真理を発見する」体験の連続です。

「あっ!この計算、こうすると簡単になる!」

というような発見が、学びの原動力になっていますし、とても大事です。

では先生は「真理」的なものを知っておくべきか否か

自分のだした結論からすると、

先生は、先生という職である以上一定の「真理」的なものを知っておくべきだと考えられます。
ただ、果たして人は算数の真理みたいなものを完全に知りえるものなのでしょうか?まだまだ発見の多い教科において「それが完全に正しいのだ」と。
もし、そうならその方は神様のようなかたかもしれません。

それよりも、もっと大切なのは「どうすれば子どもたちがその楽しい真理的なものにたどり着けるか」ということを「知っている」ことかと考えています。

子どもにとっては、算数の問題も、ひとつひとつが「初めての冒険」です。そこに発見や驚き、なかなか超えられない壁が発生するのです。

よく言うような言葉として、
「先生が先に答えを知っているからといって、それをすぐに教えてしまえば、学びのチャンスを奪ってしまう」
そういうことになることもあります。

ですので、先生は「正しい答えを教える人」ではなく、「学びの発見を支える人」であればよいのではと考えるのです。
そういう視点で授業に臨むことこそが、算数を好きになる子、学ぶこと自体を好きになる子たちを増やす一歩となるのではと思います。

順序論争の落とし穴と、本当に大切なこと

掛け算の順序論争はなぜ繰り返されるのか

X(旧Twitter)などでは、掛け算の順番に関して、「かける数」と「かけられる数」の定義をめぐって感情的な応酬が見られることが多々あります。

  • 「同数累加だから順序は決まっている」
  • 「交換法則があるからどちらでもいい」
  • 「順序の理解が算数の本質だ」
  • 「そんなことで子どもをバツにするのはおかしい」

など、それぞれの主張がぶつかり合って、話がかみ合わなくなってしまうことがほとんどのような気がします。

こういった議論が「不毛」に見えてしまう理由

「前提」が共有されていない

  • 先生A:「教育現場では子どもがどう感じるかが最優先」
  • 先生B:「算数の定義を厳密に教えるのが最優先」

このように、どこをゴールに置くかが違っているため、議論がかみ合わないと言えます。
「感情」が先に出てくることも多い
自分が最近Xで遭遇したような方も「定義がこうだ!」と主張から入りましたが、もしかしたら、実は過去に自分が否定された経験や、評価されなかった悔しさを抱えているのかもしれないのではとも思いました。

「順番を教えるのが大事なんだ!」という叫びの裏に、
「自分の教育は正しいんだ」と認めてほしい気持ちが潜んでいる場合もあるのではと推測します。そうでなければ、教育の在り方より生徒の目線に立った言葉が「先に」出るはずだからです。

「本来の目的」から離れてしまう
算数のみによりませんが、「本来の目的」や「本質」という言葉を考える際には何とかんがえればよいかなぁと。例えば・・

  • 子どもが算数を楽しみ、力をつけること
  • 考える力や論理性、数量感覚が育まれること
  • 自分の考えを表現して、人の考えも受けとめられるようになること

こういったことでしょうか。
あえて、「文科省などが定義としているような言葉をそのまま持ってくるようなことはせずに」考えてみました。

自分の考えでは、掛け算の順番をめぐる論争が、もし、これらを損なってしまうというのなら、
それは本末転倒であり、不毛だと言わざるをえません。

一応議論自体にはそれでも意味はあると考えます

では、このような論争が全くの無意味と言いたいのかというと、必ずしもそうは思っていません。
あれ?なんだか防御線だらけのブログになってきましたが(汗)、お許しください(><)。
全くの無意味ではないのでは、という理由は、

「何のために教えるのか?」

という根本的な問いを見直すきっかけになると思うからです。
この問いは本当に先生と呼ばれる人たちはあらゆる人生観や哲学、様々な知識や、先生自身の学びなどを総動員して、「常に考え続けなければいけない」ものかと考えます。

だからこそ、

①テストでは「3×2」でも「2×3」でも正解にする。
②「順序の意味」については別の授業で丁寧に扱う。
③目的は「正しく書かせる」ことではなく、「学びを楽しく続けられること」

この視点に立っていくこと。
きっとそうすることで、算数という教科が「正答率を競う場」から、「発見と喜びを育む場」に変わるのではと思っています。

(おわりに)教育とは「答え」ではなく「問い」を育てる営み

掛け算の順序問題は、単なるテストの採点の話ではすまないのでしょう。
それは多くの論争が起こるほどに、ちょっと深い沼りそうな課題。

だからこそ、親も先生も周りの大人たちも、

  • 子どもの思考をどう受け止めるのか
  • 学びにどんな価値を置くべきか
  • 正しさより、納得や発見をどう大事にするのか

といった、「教育観」を問われるのです。

先生が真理を知っていても、子どもがそれに「気づく楽しさ」を味わえなければ、学びは続きません
プログラミングスクールや学習塾を運営している以上、算数という教科を「正しく教えること」よりも、「楽しく学べるように支えること」に重きを置いていきたいとつくづく思います。

だって、そのほうがきっと、その子の人生が楽しくなる予感がしませんか?

最後に、このブログに関するコメントはうれしいのですが、きっと上手に返せないかもしれませんwww
コメントされる方は、ぜひ優しく、言いくるめるような言い方をせずにしてくださいませ(*^^*)

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土居郁男
専門家

土居郁男(プログラミング講師)

スターティングPCスクール(Stapa Programmer’s Guild)

生徒一人ひとりと対話して向き合い、本人自身も気づいていなかった強み、興味、関心、特徴などを見つけます。各自のプロジェクトを通じて、楽しみながらプログラミングを学べる、自由な雰囲気の教室です。

土居郁男プロは高知放送が厳正なる審査をした登録専門家です

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