Vol.7 学びの場で感じた、ちいさな違和感と気づき
ふと見かけた短い昔のYouTubeショート。
岡田斗司夫さんと堀江貴文さんの対談がおもしろいなぁと。
お二人が「これからは紙の本はいらないのではないか?」ということについて議論していましたが、そんな動画への感想と共感を書いてみます(*^^*)
紙の本の重みは、知の重み
今は電子書籍が普及していて、スマホやタブレットで何百冊もの本を持ち歩ける時代ですね。
とても便利だし、私もよく色んなサービスを使っています。
でも、紙の本を手に取ったときのあの感触。
- ページをめくる音
- 紙の匂い
- 手の中に感じる重み
それらは、単なる「情報の集合体」としての本ではなくて、対話の時間を自らの中に生み出してくれるものではないでしょうか。
本を読むというより、本の世界に「入っていく感覚」、あったりしませんか?
すべてはわからない。でも、持っているだけでうれしい
分厚い本を手にしても、すべてをまさに今おぼえているわけでも、理解できるわけでもありません。
それでも、持っているだけでなんだか誇らしく錯覚します。
古代中国の知者が竹簡を片手に人を指して論じあっていたような動画を多く見たことがありますが、ほんの少しだけ気持ちが分かったりしますw
持っているだけで賢くなった気がする。
もしかしなくても、先ほど書いているように単なる「錯覚」です(*^^*)
でもその錯覚が、時には「もっと学びたい」という気持ちを育ててくれたりするのです。
本を持つことは、可能性を持つこと
本には、今の自分には理解できないこともたくさん書かれているけれど、でも、購入した紙の本を読んだ後は、自分の書斎に並べて、時折思い出したようにおもむろに手に取り、ぺらぺらとめくりながら反芻する・・・
わからないことがあるというのは、成長できる余地があるということ。
すっぽりと手のひらに収まってしまう、片手で持ち歩けてしまうような紙の本を買って、1枚1枚ページをめくりながら読む。その所作はスマホのフリックよりも面倒で結構集中力がいる。だって、ページ、押さえとかないといけないですしねw
また忘れたころに再度同じ本を読むと、なんと過去に読み終えたはずの文章を見て、新しい発見・アイディアに遭遇する。
紙の本を読むということは実は、人が知識に集中したり楽しんだりするための色んな小さな「お手伝い」をしていたりします。
最後に
参考にした動画のたった数秒のセリフが、心に深く残りました。
「知識のすべてを持っていない。でも、すべてを持っている気がする。」
本を手にするということは、そんな
錯覚とロマンに満ちた体験なのかもしれませんね(*^^*)
それはきっと「効率」という言葉を凌駕するものなのでしょう。
みなさんは紙の本へのこだわり、持っておられますか?(*'▽')