Vol.38 見せかけで終わらない学びのために ~ハーバード大のAIに関する論文から見るポチョムキン理解について~

自分はこれまで、さまざまな立場の方々を対象に、主にプログラミング教育やAI、ICTに関わる講座や研修を行ってきました。
その中で、「先生」と呼ばれる職業の方々を対象とした研修において、少し特徴的な空気を感じることがたまに・・・いえ、けっこうあったりします。
このブログでは、別に敵対したり非難したりしたいわけではない・・・という防御線を張りつつ(w)、その「違和感」
の正体を考察してみました。
熱心な方とそうでない人の違い
講座には、熱心に聞いてくださる方と、そうでない方もいたりするのは当然です。
自分の興味がそこになければ、モチベーションが上がらないのは当然のことだからです。
けれども、その違いが「登壇者を知っているかどうか」
によって、はっきりと分かれる場面が少なくないように思いました。
そうです。単に知己の関係にあるかどうかを前(講壇)から見ると分かったりすることがあるのです。
ある方は明らかに眠っていたり、腕を組んでぶすっとしていたり。
一方で、登壇者のことを以前から知っていたり、信頼してくださっている方は、前のめりで話を聞き、しっかりと頷きながら反応を返してくださいます。
誰から学ぶか
「誰から学ぶか」
は確かに大切ではあります。
私自身も、信頼できる人からの言葉には自然と耳を傾けたくなりますし。
けれども、状況が違うのです。
すでにその場(学びの場)に来てくださっているのであれば、その時点で話は変わってきます。自分に興味がない学びの場には、最初から行かなくてよいのだと思うからです。
なので、せっかく来たからには少しは心を開いてみてもいいのではないかと思ったりしますが、すでにそこには何かしらの「バイアス」
がかかっているようで、こちらからはなかなか変えられません(><)
この言い分の証左としては分かりやすくて、
登壇者が知名度の高い時には目を輝かせ、自分のような知名度の低い立場にある者が立つと、明らかに何かを話す前から態度や表情から前向きな姿勢が抜け落ちます。
無意識なのでしょう。とても際立って見える瞬間があります。
そして同時に、「人は、気づかないうちにさまざまなバイアス(思い込み)に影響を受けているのだな」
と、改めて感じさせられるのです。
本来、「先生」という立場の方々は、誰よりも学び続ける姿勢を持ち、後進にその背中を見せている存在なのだと思います。
だから「かっこいい」
のです(*^^*)
したくない研修も、学びたくない相手もいるでしょうけれど、ぜひ少しだけ、立ち止まって自分の「心の在り方」に気づけたなら、それだけで素晴らしいことなのではないでしょうか。
私自身もまた、日々そのような「無意識」に気づきながら、より良い学びの場をつくれるよう模索しています。
いずれどこかの講座で、「バイアス」に気づくための小さなワークを取り入れるような講座も面白いかなと考えています(*^^*)
学びとは、知識だけでなく、心の在り方にも触れるもの。
そんなことを、改めて感じた出来事でした。
まとめ
三人行えば必ず我が師あり
論語
この言葉は、相手が誰であっても学びの対象になる可能性があるという謙虚な姿勢を教えています。
たとえ自分より若い人でも、立場が違っても、有名でなくても、「そこに学びがある」と受け取れるかどうかは、「自分の心の構え次第」
なのだという示唆となります。



