父、そして私と三日月の夜
「何かを続けていくためには、変わっていかなければならない」
批評家の東浩紀さんは最近の著書「訂正する力」で
変わる必要性を説いています。
「ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく」
現代日本で「誤る」こと「訂正する」ことの意味を問いている内容の本ですが、
そもそも人間は老いていくもので老いるとは変化することであり
「若いころの過ちを訂正し続けるということ、
同じ自分を維持しながら昔の過ちを少しずつ正していくことだ」
との指摘には共感できるところがあります。
私は「子育て」についてがまさに「誤る」ことと「訂正する」ことの
繰り返しであるように感じました。
私の両親は、私が子どもだった頃とても厳しく
時に暴力的で強制的な親であったと思っています。
その教育の仕方に対して不満と怒りと
そして孤独感を感じて生きてきました。
私がカウンセラーになったきっかけも
1つはこの時代への反発があったからだと感じています。
大人になり、親になって子どもを育ててみて
この世の中の普通がいいという常識の概念の中で
現在の社会がどれだけ不平等で
そして私たち大人がどれだけ子どもたちに対して
誤ったしつけや押しつけがましい愛情や身勝手な思い込みを
植え付けてしまっているかを感じています。
「学校に行く」「勉強をする」「時間を守る」
「やると決めたら最後までやる」「規則正しい生活をする」「普通であれ」…。
私たち大人は自分の身についてきた常識を「普通」なこととして
子どもにしつけてしまっていることの誤った考え方になかなか気付けない、
つまり訂正するという考えになれていないことが多いようにも思います。
歴史を振り返ってみると
日本の常識は変わらざる得ない状況もありますし
現にAIが発達して様々な形での生き方を求められていますし
外国人との共存生活も増えていく中で
「ふつう」がどんどん変わっています。
「訂正する力」を大人・親である私たちが
問い直す時なのかもしれないと痛感します。
ただ、今はネット社会の弊害もあるのか
訂正できない風潮が高まっていることもあるように思えます。
様々な事象に対して肯定か否定か、敵か味方か、といった極端な対立になりがちで
過去の情報も簡単に見つけ出すことができ、
その人の「以前の言動と矛盾する」と集中砲火をあびたり
人格の全否定になってしまうケースもメディアで見受けられます。
時代はどんどん変化していくのだから「ぶれない」はずがない。
事実をねつ造したり都合良く修正するということではなく
過去を認めて、訂正するために謝罪する勇気を持ちながら
過去を書き換えていくということが
生きるためには必要なのだと思います。
それが再び親から子どもへ
そしてその子どもが大人になり親になっていく中で
誤りが訂正されて謝罪と共に次の新しい優しい時代が訪れるという
そんな希望こそが力であると
思わずにはいられない日でもありました。