春の終わりに
私たち日本人は年齢をとても気にする民族であると思う事が日々よくあります。
新聞や雑誌やTVなどで誰かの名前が出る時には
ほとんどの場合 (○○歲)と年齢が表記されているように思います。
報道の性格上、必要な時はやむを得ないと思いますが
全く不要に見える場合でもお決まりのように年齢が明記されます。
なぜそこまで私たちは年齢を気にするのでしょうか。
日本では学校でも1年先輩、後輩で付き合い方が全く異なったり
企業においても「年次」が強く意識されます。
言葉遣いにしても「タメロ」が使えるのは同期どうしのみ、
といったように人間関係において年齢や年次は
極めて重要な要因となっているように感じます。
年長者や先輩に敬意を払ったり、後輩をかわいがったりと
年齢を意識することの良さはもちろんありますが
「年齢の呪縛」がマイナスに働くことも増えている気がします。
例えば「アラサー」「アラフォー」といった言葉は
時として女性にプレッシャーをかけるような使い方をされることがあります。
「人生100年時代」 といわれる今ですから
昔のように、何歳までに学び終え、就職し、
何歳までに結婚、何歳で引退と型にはまらず、
望めばまた学びなおし、働き続ける。
そして 結婚の形もまた変わっていくのが自然かもしれません。
欧米では年齢による差別は格段に少ないように感じますし
男女や同性との関わり方も結婚などという形に
とらわれていない場合も多いですし
また、子どものいない場合でも
アダプテッドチャイルド(養子)という形に
順応であったりしています。
私たち日本でも、
自分自身や他者に対して「普通」という枠にとわられず
もう少し優しく広い視野でお互いがお互いを尊敬しあえれば
もっとみんなが生きづらさから解放されるのに…と思ったりします。
もちろんそれは「きれいごと」なのかもしれませんが
人種、性別、年齢、学歴、職歴、家族構成などに惑わされないで
それぞれが様々な可能性や役割があると信じて
自信を持って生きたいと思います。
それが「きれいごと」ではなく「美しいこと」だと思った日でした。