「供養」習慣が「やさしさ」育てる
先輩僧侶の父上がお亡くなりになられた為、昨日、一昨日と兵庫県の北部
雪深い但馬・村岡に通夜、葬儀のお手伝いに行っていました。
僧侶の最高位「大僧正」までなられた御方でした。
但馬地域の天台寺院が集まり、僧侶八人で臨む格式高い葬儀になりました。
ご家族、親戚縁者、ご友人、檀家さんたち、たくさんの方々に見送られた
素晴らしい葬儀式だったと思います。
昨今、葬儀は簡素化の方向にむかっています。
準備が大変、お金がかかる、何より面倒などなどの理由があるのでしょうが、
お人の人生のとても大事な節目の儀式に思います。
逝く人にとって、だけではなく、残された人達にとっても。
そこで一度、目いっぱい悲しんで、厳粛な気持ちになって、明日からを切り替える。
その場で久しぶりにお顔を見る方々もおられるはずで、お人の縁を結ぶ大切な場にもなるはずです。
大変だけども、準備をし、お人を呼び、接待をし、お人と一緒に食事をし、会話をし、片付けをし、
それを繰り返していく中で、少しづつ気持ちが癒えていく、という昔からある安心システムのようなものに思うのです。
それらがなく、ただ家族が居なくなったという事実と時間だけがある、ではあまりに寂し過ぎます。
お人によっては寂しさに耐えきれず、押しつぶされてしまうかも。
昔からある葬儀にはそういう役割があるように思っています。
ただそうやってきちんと葬儀を執り行ったとしても、四十九日を越える頃には
当然、来客は減り、日常が戻ります。
その時、その亡くなった家族を偲ぶ場、それがお墓なのです。
日常あった事を墓前に報告し、好きだったものを供える。
きっと安心と満足があるはずです。
その姿を見ている人達は必ず同じようにしていきます。
そうやってお墓を中心に幸せの輪が広がっていくのです。
だからお墓は悲しみのシンボルではなく、幸せのシンボルなのです。