信号や
その2
鉄道の現場に勤めていると、四六時中運転指令所から電話がかかってくる。
たとえそれが夜中の2時であってもおかまいなしだ。
「運転指令所です。係長、夜分すいません。粟生線の谷後第四踏切付近で自動車が線路内に侵入して電柱にぶつかり、電柱が折れて線路を塞いでいます。すぐに復旧をお願いします」
こんな調子でお呼びがかかる。
そうなると、すぐに現場に行かなければならず、妻はもう慣れっこになっていた。
結婚して間のない頃、台風の接近で出社することになったとき、声が聞きとれないほど風が吹き荒れる玄関で、妻が一度だけ私に言ったことがある。
「一番家に居てほしいときに、出かける仕事なんや」
それ以来、妻は一度もこの言葉を口にしなかった。
世の中に「信号や」と呼ばれる仕事がある。
私がその仕事に就いたのは、入社後、1年が経過したころである。
それまでは、電車の運転をしていた。
私は母子家庭の農家の長男であったため、地元の国立大学を卒業すると、すぐに転勤のない地元の神戸電鉄に就職した。
この会社では、大卒は入社するとすぐに電車の運転免許を取るために運輸部教習課と呼ばれる教習所に配属されることになっていた。どこに駅や踏切道があるのか、沿線の状況もろくに知らない二十歳そこそこの新入社員が、入社するとすぐに電車の運転をする。その頃は会社もずいぶんと思い切ったことをしていた。
私は自動車の運転免許は持っていたが、初めて電車のブレーキ操作をしてその違いに驚いた。
左手でマスコンと呼ばれる自動車のギアチェンジに相当する水平に回転するレバーを持ち、右手にブレーキハンドルを持つ。つまり両手が別々の動きをして運転操作をする訳だ。
出発時には、ブレーキハンドルを前方に押して緩めると同時に、マスコンを手前に引いてモータを始動させる。マスコンは2段階しかなく微妙なスピードコントロールはできない。マスコンをオンからオフにすることでスピード調整をする。自動車でいうと、アクセルに足を乗せるか乗せないかの2段階でスピード調整をするのと同じだ。
このマスコン、常に上から下に押さえつけておく必要がある。手の力を抜いてマスコンが上に跳ね上がるとデッドマンブレーキといって、非常ブレーキがかかって電車は急停車する。
運転士が居眠りをしたり、気絶したときの安全を担保するためである。
そして、駅に停車するときには、マスコンを中立位置まで戻しオフにするとともに、すぐにマスコンを前方に押し出す。自動車のエンジンブレーキに似た発電ブレーキが動作する。それでしばらくスピードを落としたのち、最後はブレーキハンドルを手前に引く。
すると、エアコンプレッサーで圧縮された空気が車輪のブレーキに送られ、その力で車輪を圧迫する。鋳鉄製のパッドを車輪に押しつけているだけで、最後のところは自転車のブレーキとよく似ている。
が、その操作は自動車とはくらべものにならないほど難しい。
ブレーキハンドルの操作と、実際にブレーキが効き始めるまでにかなりのタイムラグがあるからだ。
ブレーキが効かないと思って、さらにブレーキハンドルを引こうものなら、そのときに最初のブレーキが効き始め、最後は追加のブレーキが効いたことで急停車する。
こうなると車内で立っているお客さんは、全員前倒しになってしまう。そんなことをしようものなら即始末書ということになる。
電車をうまく運転するコツは、停車間際にブレーキを緩めることである。まだ速度が落ちきっていないうちに、三段階でブレーキを緩める。最初は怖くてこれができない。
ここには、自動車教習所のような練習施設はなく、訓練はいきなりお客様を乗せた営業列車で行われる。自動車を運転したことがない者が、いきなり路線バスを運転するのと同じだ。
最初の制動操作はヒヤヒヤもので、もちろん横から師匠の手がにゅーと伸びてきて、二人運転となる。



