箱根駅伝が混合レースとなる日は来るのでしょうか?
遊びやすい大きさとは?
既に申し上げましたように、世界的に見ても、鉄道模型で遊びやすい大きさは、プラレールなど、あの手の汽車の玩具の大きさと考えます。ほぼ1/80あるいは1/87というHOゲージサイズに相当し、現在この国を席巻しているNゲージサイズより大きなものとなります。
(鉄道模型は子供のオモチャです!)
https://mbp-japan.com/hyogo/banyohkagaku/column/5197448/
このHOゲージは自作しやすいという大きなメリットがあります。一応Nゲージにもキットはありますが、車体は既に一体型の成型品が多く、動力も既製品のユニットを入れるだけ、複数の列車の制御や走行音を発するための電子基板を入れるスペースもないのでデジタル化もできないなど、様々な制約があり過ぎです。結局、Nゲージが出現した1960年代、電子化もほぼ無かった時代から『全く進歩していない!』と言っても過言ではございません。
もっとも、Nゲージに場合、情景模型(ジオラマ)を作ろうとすると、より多くの場面を、あるいは省スペースで表現することができるので、そちらのメリットを叫ぶお声もあろうかと思います。ただ、鉄道模型、車両が走って何ぼのもんで、あくまでも主役は動く車両で、脇役ばかりに目が行くのもどうか?と思います。
毎月一から作る記事が連載されていた。
そんなNゲージが出現してからさほど年月も経っていない50年程前のお話です。当時はまだHOゲージが主体でした。模型とラジオという雑誌があり、そこに毎月鉄道模型の作り方が連載されていました。今でも鉄道模型の雑誌で散見される、作例を自慢するものではなく、あくまでも小中高生に作り方をしっかり教えるものでした。近所の図書館にその雑誌があったので、それを借りて、近場で唯一コピーができた文房具屋さんでコピーをしました。下記がそのコピーになります。京阪の80系と阪急の100系の記事です。
(京阪80系)





(阪急100系)





実際に見ることができる車両が記事に
この連載の特徴は読者が実物を目にする機会がある車両ばかりだったことです。京阪の80系はその後も長きにわたり活躍しました。阪急の100系こそ記事が書かれた時は既に引退していましたが、直前までバリバリ働いており、今でも阪急電車の正雀工場に動態保存されています。この実物があるか?否か?は大問題です。子供が絵本やテレビで新幹線を見て、新幹線の線路まで行って実物の走行を見て、そして実際に乗って、新幹線の玩具で遊ぶのは自然な流れです。その延長線上に新幹線の鉄道模型となりますが、主力のN700系のHOゲージの模型は生産量がごく僅かな上に、16両揃えるとなると、軽自動車一台分ぐらいになってしまい、ほぼ市場に出回ることがありません。せめて廉価版の4両編成ぐらいでも十分役割は果たすと思いますが…
その一方で、今、HOゲージの多くが、既に引退してから数十年以上も前の車両を中心にリリースしていて、しかも今では影も形もない同じ古の車両を複数のメーカーが競作している状況です。これではジジイだけは喜ぶかもしれませんが、孫は全く興味を示さず、後継者も育ちません。
作り方が具体的!
そして、この記事のもう一つの特徴は作り方が小中高生でもできるように、身近な文房具などを使いながら具体的に書かれている点です。このように、小中高生を対象にした工作記事は長年見なくなりましたが、これはこの国が技術立国から転落した遠因と考えます。
実際に作ってみた。
そして、当時の作品です。
(京阪80系)
作ったのは、おそらく小学生の時だったと思います。かなりの芸術品でした。
後年、完成品を購入したのですが、見比べると面白いです。
とはいえ、結局、自作第一号がどの車両よりも愛着が強く、大切な車両です。
(阪急100系)
中学生になっていたと思います。2両作りました。
いくらかは腕も上がったようです。昔のやや強力なモーターを入れた関係で、モーターのうなり音も電車とよく合い、スピードもかなり出ました。
試運転した時に、『往年の走りだ!』と叫んだところ、父親から『往年の走り、知らんやろ?』と言われてしまいました。実は実物が走っている姿、見たことがありませんでした。後年、父親も一緒に阪急電車正雀工場の見学会に行った際に、実物の内部も含めて見て乗って感動したものです。
ものづくりの原点であった。
てなことで、上記2作の経験はその後のものづくりの世界を歩む重要な原点でした。たかが鉄道模型、されど鉄道模型です。HOゲージは格好の教育の場です。業界全体がジジイの方ばかりを見て、後継者の育成には目を向けませんでした。これは鉄道模型のみならず、電子工作その他でも見られた現象でした。子供時代にモノづくりに接する機会や環境を少なくして、その結果、後継者も育たなかったのですから、技術立国ニッポンが崩落しても致し方ありません。しかしながら、今からでも遅くはありません。温故知新、例えば上記模型とラジオの記事のようなものがまだまだ残っています。発掘すればいろいろ出てきます。このような資料には再び技術立国への道しるべが刻まれているはずです。今一度、考え直す時ではないでしょうか?




