月をめでる
皆様方、お世話になっております。日々雑感を綴っております。
かつて、とある繊維メーカーで世界に誇る製品が開発され、現在でもトップシェアを走り続けているものがあります。知り合いにその繊維を開発した中心人物がいます。定年退職後も勢力は全く衰えず、80代となった現在でもバリバリ活躍中です。3か月ほど前にその人からメッセージが来ました。
『AIについて:AIを”阿保いい加減にせい!”と呼んでいます。勿論うまく使えば便利なツールでありますが、AIに使われては人間でなくなります。AIに負けないためには、技術面から言えば、特許を制することと捉えております。技術指導している若い人には、AIに負けない技術的能力を持たない限り、いずれAIに駆逐されると警告しております。』
これに対して、『AIのことをさほど知らずにもうろくしているだけ?』と思われる方もおられるかもしれませんが、しばらく様子を見ていると、かなり当たっているのでは?と思うようになりました。
一つのステータス?
最近では頼みもしないのに、わざわざ『AIで作りました!』と言って、資料を提示する方々が多くなりました。AIを使うということは、一つのステータスになりつつあるのでしょうか?中には文章作成をAIで行う代行業まで現れました。
そんな文書作成代行業者から弊社の効果的な宣伝文を作成してくれるという、無料モニターの案内がありましたので、頼んでみました。ところが、全くの期待外れで、提出した文言がそっくりそのまま並んでいるだけでした。一応つなぎや見出し的な言葉もありましたが、大して心惹かれる部分もなく、ほとんど意味なしでした。
確かにAIは素晴らしい面があるでしょうし、それは十分認識しております。そして、AIのメリットについては、今や至る所で語られており、AI賛歌が高らかに歌われ、『乗り遅れるな!生き残れないぞ!』という警告めいた叫びも氾濫しております。それらつきましてはその方々にお任せするとして、AI利用で陥りやすい懸念点について考えてみたいと思います。
(1) できた気になってしまう
AIに資料を作らせると、確かに見たところ、『それらしいもの』ができます。それで『できた気』になってしまいます。しかしながら、やはり機械がすることでしょうか?結局最大公約数を取っているだけで、それが100点満点なのか?30点なのか?もわかりません。工場での品質管理も『最後は人の目で…』と同じと言えます。ところが、とりわけ私のようなサボり癖の塊のような人間は、つい続きをやることが面倒となり、そのまま思考停止となります。例えば、元の情報がそれらしいものであれば、間違っていてもAIは訂正も指摘もしてくれません。結局最後は自らチェックするしかありません。ところが、つい『出来上がった感』に負けてしまい、そのままスルーとなってしまいます。AIの最大の懸念点は簡単に『やった感!』押しつぶされてしまうことにあるのでは?と思います。
(2) 量を稼げる
AIが作った資料を見ると、それなりのボリュームがあります。
これまた『充実感』を誘うものです。
しかも、自力では探しきれかなかった情報までが含まれていることがあります。そうなるとつい『凄い!』と思ってしまいます。
ところが、良~く見ると、実際には不要な情報ばかりが多く、論点からずれていることも少なくありません。これも上記のそれらしいものができたことによる副作用です。そして、AIを使って作ったと称する資料とやらを見ても、量が多い割には出典などの情報が書かれておらず、道しるべがない状態です。これについては後述します。
(3) 木を見て森を見ず
少し前に、このコラム欄のとある文章について、特定の部分だけを取り出してAIにかけて厳しい指摘をして来たお声がございました。確かに言われればその通りで、こちらとしても考えが及んでいなかったことは事実で、修正を経てより良いものとなりました。それは素直に大変感謝すべきことです。しかしながら、冒頭に『雑感』と書いておりますように、所詮個人の感想です。もちろん個人の感想だから何を言っても良いわけでもありませんが…
その一方で、AIはあくまでも『雑感』であったことを考慮してくれないこともわかりました。あくまでも一般論としては正確、正論でも、文章全体を読むことによって、解釈は変わって来ることも多々あるものですが、それをAIはやってくれないようです。
例えばどこかのお茶を飲んで美味しかったとします。それに関して『カテキンの作用だと思う』とか言ったとします。それに対して、『本当にそのお茶にはカテキンどの程度含まれているのか?そもそも美味しいことがカテキンの仕業との証拠はあるのか?データを示さないとお茶を作っている人への名誉棄損になる!』といった類です。実際上記指摘はそのようなものでした。確かに研究論文のような針の穴を通すように正確で間違いのない?文章を書くのであれば、そのような配慮は必要でしょう。しかしながら、あくまでも雑感、徒然なるままに…です。しかも、その文章がどこぞの観光地へ行った時に感じたことを綴ったものであるとします。全体を見れば、いわゆる個人のしがない感想に過ぎず、正確さなんぞ全く必要でないことぐらい、直ぐにわかるはずです。本来であれば人間サマが判断できることで、人間サマの国語力の低下はAIの発展以上に猛スピードで進んでいるのかもしれません。正に『木を見て森を見ず』で、何も考えずに闇雲にAIを使うと思わぬ弊害が生じてしまうと考えます。
(4) 出典や根拠に危うさが…
そんなAIを利用して作られた資料ですが、情報の出展や根拠などが書かれていることはほとんどなく、あっても単に『AI利用』としかありません。もっとも、AIでも出典は出せるので、明記はできるはずですが、そうは行かないのです。それは資料を作っただけで『やった感』に陶酔するが故なのでしょうか?あるいは今や『AI』とさえ出しておけば水戸黄門の印籠みたいになるのでしょうか?どうやらそれだけではないような気が致します。
ここでAIが出した結果の一例を見てみます。簡単に出来る方法として、Googleで『脚注』と検索してみます。『AI による概要』として、『脚注とは、本文の枠外に設けられた注釈や補足説明のことです。本文を補強したり、専門用語の意味を解説したり、引用した資料の出典を示したりするのに使用されます。』と出て来ます。見たところ良さげです。ところが、その根拠はWikipediaがトップで、それ以外もいろいろリストアップされているものの、どこぞのホームページばかりです。更に驚いたことに、その根拠が随筆レベル、早い話がこのコラム欄のようなものだったりするのです。もちろん、私も一応気合を入れてこのコラム欄を書いてはおりますが、冒頭で『日々雑感』と述べておりますように、研究論文などに必要とされるような『正確さ』を重視したものではありません。正直、徒然なるままに、気分によるところも多いです。
あくまでも一般論ですが、論文や総説には参考文献としてWikipediaなどホームページを載せることはまずありません。それは内容が不正確であったり、簡単に改変、削除されたりする可能性もあるからです。もっとも、今やホームページ閲覧は非常に便利で欠かせないものですし、常に利用しております。Wikipediaも例外ではありません。それどころか、このコラム欄も『ホームページ』そのものですので、決して否定はできませんが、その立ち位置は認識しておくべきです。
おそらくAIで作る資料でも、設定では脚注などとして出典を自動で積極的に出すことはできると思います。しかしながら、その出所があまりにも怪しく、敢えてそれらを隠すような仕組みになっているのでは?つい、そんな疑惑を抱いてしまいます。
(5) 思考停止といふ快楽
てなことで、最近ではAIが出した結果について絶賛する声は大きい一方で、その所以については全く持って疑わない方々が多くなりました。それどころか、(AIを利用して)自ら作ったはず?の資料をほとんど読まずにいるようで、当然のごとく、確認も理解もできていないようです。『人の褌で相撲を取った』結果でしょうか?結局、楽をすることと引き換えに思考停止が促進され、判断力も消え失せ、加速度的に脳が退化して行くことが懸念されます。そして、その一方で、相手を焦らせ威圧し、不安を煽ることに大きな喜びを感じるためのツールとして、時としてAIがその役割を果たしているようにさえ思えます。
(6) 現代文の試験対策にヒントがあるのでは?
しからば、どうすれば良いか?になります。
かつて予備校生をしていたころ、現代文の授業がありました。当時の共通一次試験ですから、記述式ではなく、マークシート方式でした。本文があって、答を選択肢から選ぶやり方で、その対策でした。必ず出る問題がありました。『結局、筆者が言いたかったことを、次の中から選べ』というものです。この手の問題、お決まりのパターンがありました。選択肢が五つだったとします。そのうち、三つは明らかに間違った答です。もっとも、これを選んでいる間はかなりヤバく、いわゆる『顔を洗って出直して来い!』状態です。厄介なのは残りの二つで、一つは正解です。ところが、もう一つは正解に限りなく近いが、微妙に違っていて、不正解というものです。この引っ掛け問題に翻弄されることが非常に多いそうです。しからば、その対策はどうするのでしょうか?実は簡単です。『選択肢を見ないで、自分で考えてから、選択肢を見る。』これだけで非常に有効だということです。実際にそうでした。AI利用も同じではないでしょうか?まずはAIを使わずに自力でやります。とにかくもがくのです。そのあとの仕上げとしてAIを利用すればその効果は発揮され、完成度も高くなるはずです。逆に最初からAIを使っちゃダメ!ってことではないでしょうか?最初からやると、脳を使う場面がなくなり、結局他力本願、人の褌で相撲を取った挙句に、脳の退化、老化を促進するだけでなく、性格もどんどん悪くなってしまう可能性大です。
この予備校時代のエピソードなどを上記(AI利用を売りにしている)文書代行業者の社長さんに伝えたところ、『予備校時代の現代文のお話、大変興味深く拝見いたしました。選択肢を見ずに自分で考えるという方法は、AIの利用にも通じるものがあると感じました。まさに、AIを「仕上げ」として利用するという考え方は、今後のサービス改善において重要な示唆となります。』という返事をいただきました。この社長さん、かなり礼儀正しい人で、最初からこちらの質問にも真摯に対応してもらっており、今後も情報交換して行くことで一致しております。
AIに見切りをつける
さて、これはとある展示会会場を回っていた時のことです。至る所でAI賛歌が流れていました。そんな中、某超一流商社のブースも訪れました。他とは一風変わっていました。『統計学に基づいたアルゴリズムに基づき、諸事情を予測するツール』を宣伝していました。『AIのように根拠が怪しいものではなく、あくまでも学問的に研究が進んだ統計学を土台とする』との主張でした。AIについて尋ねると、AIの欠点を指摘した上で、『もはやAIを重要視していない!』ということでした。『さすが超一流商社、これこそが最先端!』と思ってしまいましたが、いかがでしょうか?



