「親も初めての体験」 Vol.11
アジサイの鮮やかなブルーが梅雨のうっとうしさを癒してくれますね。
今日は、「こわいもの」についてお話をします。
皆様も子どもの頃、親や先生はとても「こわかった」という記憶がありませんか。
親にちょっとした嘘や言い訳をしただけで、目から火花が出るほど殴られたものです。
自分のしたことへの、「よい」「悪い」の判断を身をもって知らされたものです。
また「こわい」先生へは近づくだけでも「こわさ」を感じたりもしました。
敬語を使って話し掛けるのは当然でした。
また同級生をたしなめる時に「先生に言いつけるぞ!!」という言葉が、武器にもなっていました。
体罰の善悪は別にしても、現代、この「こわさ」が少なくなってきているような気がしてなりません。
「こわい」の中には畏敬・尊敬・厳しさが入っていました。
子どもの頃の「こわい」とは「親(先生)がみている」「親(先生)がどう言うか」という「目上の人」の存
在や何が出てくるかも知れない真っ暗闇の場所でした。
人間は、この「こわい」存在があって、はじめて自分を自分で律することが可能になり、自分を大
きくしていくことができると思います。そしてこの「こわさ」を経験することが学習の一つでした。
不登校や学級崩壊など社会問題として出現した現象にも実は根底に、この「こわさ」の欠如がある
ような気がしてなりません。
「本物の優しさ」とは厳しさの上に存在するものあり、「偽者の優しさ」とは甘さの上に存在するものだ
と思います。
子どもが善悪を判断する機会を捉えて、損得なしの毅然とした大目玉を与えることも親としてとれる
当然の行動だと思います。子どものためではない、自分のためではない、ただ本当の事をする(言う)。
そのことが子どものためであると同時に自分のためになるのです。