C値、UA値、高気密高断熱と注文住宅の費用対効果(福岡市工務店の一級建築士)
(多々良川の夕べ:撮影清武)
博多湾河口、多々川。
私の散歩コースから、日本の歴史、福岡市東区の歴史を徒然なるままに。
弊社、清武建設(福岡市東区箱崎7-2-14)より歩くこと5分、
ここ、多々良川にも、歴史的な出来事が数々あります。
【南北朝時代の多々良浜の戦い~】
◆本来、天皇は一人だが、その時代は複数の天皇がいた南北朝時代 、福岡市東区の『多々良川』 河口にて、『菊池武敏(南朝の懐良親王が玉) 』と『室町幕府を創始する足利尊氏(北朝が玉)』が戦った。※玉→ぎょく(天皇より認可される事が大義であるという日本の歴史から。)
(南朝の後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し、京都を追われた足利尊氏が多々良浜の合戦より再起する。)
◆細川氏( 足利氏 )
そして、時代は変わり、「清和天皇」→「源(みなもと)氏」→「足利氏」→「細川氏」と名字を変え、小倉藩の領主から、熊本藩(肥後)の領主になる「細川氏(足利氏)」と、熊本を中心に勢力があった「菊池氏」とは、不思議な縁である。
◆弊社(筑前町店)の近くの大刀洗公園 に、 菊池武光 の銅像があります。菊池武光が太刀を洗ったので大刀洗という地名、大刀洗町 に。
◆せごどん(2018年現在、放映中につき)
足利尊氏(北朝)が勝ち、 室町時代 になるが、せごどん( 西郷どん )大河ドラマ放映中の 西郷隆盛 のルーツは、菊池氏(南朝)の家臣だったので 西郷南洲 、南朝の『南』を名前に入れて名乗ることもあり、南北朝時代『九州に実在した南朝国家』 を復活させる思いがあったのかもしれない。
◆『九州に実在した南朝国家』とは、懐良親王(菊池氏)は、中国(明朝)より、日本国王としての、『位(日本国王良懐)』をいただき、あくまでも対外的だが、太宰府を都(日本国の都)として、認識されていた時代があり、その時の国家。
◆南朝
鎌倉幕府 を潰したのは、南朝 の 後醍醐天皇 だが、北朝の武将、足利氏 の 室町幕府 の時代になり、 南朝の後醍醐天皇の数十人の子は、北陸(尊良.たかよし、恒良.つねよし)、近畿( 後村上天皇 )、長州、九州(懐良親王 .かねながしんのう)・・・南朝天皇の子孫が全国各地へ。
◆南朝の祖の亀山上皇が、1274年、元寇襲来の時に炎上した社殿の再興にあたって書いたとされる『敵国降伏』を、時代を経て、1594年、小早川隆景が『箱崎宮楼門』を築き、『敵国降伏』の文字を拡大して掲げる。(箱崎宮に豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に陣を置く。)
(箱崎宮楼門:撮影清武)
◆南朝の祖の亀山上皇の像が、箱崎宮 と東公園にあります。
【戦国時代の多々良浜の戦い~】
◆福岡市東区と 糟屋郡新宮町 にある 立花山 にあった山城の 立花城 の帰属を巡り、大友宗麟 と 毛利元就 が多々良川で戦う。(立花氏は柳川藩へ移る。)
◆毛利元就の三矢の教えは有名だが、毛利元就の三男が小早川隆景。
◆小早川隆景には実子がなく、豊臣秀吉の親族(羽柴秀俊)が養子になり、小早川秀秋と名乗る。
◆小早川秀秋は、関ヶ原の合戦において、『石田三成』率いる西軍より寝返り、東軍の『徳川家康』が優勢になった。
◆小早川秀秋は、小早川隆景(たかかげ)が築いた名島城(現在の名島神社)より、備前岡山へ。
◆小早川秀秋が移り、黒田長政(黒田勘兵衛の息子)が福岡入りし、名島城主に。
◆名島城は、早々解体され、名島城の石垣は、黒田長政が初代城主の福岡城(舞鶴城)に使われる。名島城の跡地には、現在の名島神社( 福岡市東区名島1-26 )があります。
(名島神社:撮影清武)
◆1588年、小早川隆景(たかかげ)が築いた名島城に由来し、現在に残るのは、『名島門』がある。福岡藩初代藩主・黒田長政の居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田二十四騎の一人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、邸宅の門として使用される。その後、『名島門』は、平和台陸上競技場前より大濠公園へと抜ける途中に移転され、現在に至る。
(名島門:撮影清武)