人を心服させる、リーダーシップの重要性―事例集|最高の戦略教科書『孫子』を読む⑨ー3
彼我を知る・事例集
今回も事例集として、2事例紹介します。さっそく見ていきましょう。
硫黄島の戦い

太平洋戦争でも屈指の激戦地となった硫黄島。アメリカ軍陸上部隊司令官のホーランド・スミス中将は「五日で落とす」と豪語したが、三十六日にもわたる戦闘の末に、約2万の日本軍はほぼ全滅し、アメリカ軍は2万8686人の死傷者という、双方に甚大な被害を出して終結した戦いとして知られています。この日本軍を指揮したのが、栗林忠道陸軍中将です。日本軍の強さは、単に栗林中将が「有能な野戦司令官」だったからではなく、組織力を最大限引き出せる、「將」の利を備えた指揮官だったからに他なりません。
着任後、栗林中将は島全体の調査を行っています。「地」の利を得るためです。硫黄島は硫黄ガスが噴き出る火山島で、川も湧き水もなく、食べられるものが豊富にあるわけでもないという、持久戦を仕掛けるには向いていない土地柄でした。兵站線に関しては、これらが分かれば、水の調達手段は限られてくるし、その浪費に至ってはもってのほかとなります。補給もない以上、食料も自給するしかありません。そこで畑を作ることが部隊に推奨されました。
戦闘に関しては、塹壕を巡らせて島全体を要塞化し、島の南北を固め、中央に上陸してきた場合は挟み撃ちにして攻撃する作戦を立てていました。これは非常に優れた作戦でしたが、それは
- 望めない本国からの支援。
- アメリカ軍は制海権、制空権をおさえ、桁違いの物量を誇ること。
- 硫黄島の特性、地理的要素。
などといった、「相手」と「己」をよく分析していたからこそできたものになります。しかし、栗林中将が「ただこれだけ」の指揮官だったならば、アメリカ軍の被害はもっと軽微なものになっていたことでしょう。
栗林中将は人を大事にしていました。
- 部下の工兵の意見によく耳を傾ける。
- 陣地視察時、作業員にタバコのお土産を配る。
- 笑顔で部下を労わる。
- 作業中の敬礼を省略する。
「將」の利を備えていれば、自然とこのような考えや行動になっていきます。硫黄島の日本軍は、栗林中将の元で、君臣一体の軍隊となっていました。苛酷な環境の中でも統率が乱れることなく、大奮戦ができたのは、偏にこれがためです。時代や場所さえ異なっていれば、さらに大きな活躍もできたであろうことを思うと、悔やまれてなりません。一つの理想的な指揮官像として、学びたいところです。
(岡田益吉・著『日本陸軍英傑伝』)49頁~75頁
(高橋勝視・編『太平洋戦争 戦いの記録』)100頁~104頁
岩崎彌太郎
言わずと知れた、三菱の創業者・岩崎彌太郎。三菱創業の折、石川七財が米相場をやると言い出したことがありました。米相場で大失敗をした経験がある彌太郎は、本来ならば石川を止める立場です。ところが好きにさせた結果、三千円という大損を出して戻ってきました。なぜ止めなかったのでしょうか?あなたならどのように対応したでしょうか?
彌太郎は石川が
- 旧士族の出身でプライドが高いこと。
- 頑固者であること。
このことをよく理解していました。つまり、「石川七財(彼)」を知っていたゆえの行動だったのです。口で説き聞かせても意味がないばかりか、「俺だったらできたのに、させてくれなかった」―後の禍根にもなり得る状況でもありました。有能な石川と雖も、失敗することは予想済み、その痛い目を以て学習させる―この一件は、彌太郎の兵法家としての腕前のみならず、三千円という大きな損害を、石川のためになったならば安い授業料だと言ってのける、その豪胆さもまた手本とすべきです。これ以降、石川が言うことを聞かない時は、「米相場をやっては如何」と彌太郎は勧めるようになりました。笑い話のようですが、頑固な石川を黙らせる手段としても、米相場の一件は使われることになったのです。
(岩崎彌太郎・岩崎彌之助傳記編纂会・編『岩崎彌太郎傳』下巻) 661頁~663頁
今回は硫黄島の戦いで司令官を務めた栗林忠道陸軍中将と、三菱創業者の岩崎彌太郎を事例に、彼我を知るについてお話しました。今回はここまでといたします。



