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地政学的観点もこの兵法から|最高の戦略教科書『孫子』を読む⑧

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テーマ:孫子の兵法

地の利|「遠近・險易・廣狹・死生」勝手知ったる我が庭

 これは文字どおり、地の利を言ったものです。天の利と同様に、戦時と平時で知るべきことが異なります。

  • 戦時…河川・山岳地帯・標高・通路・池沼・橋・社会設備といった要素。
  • 平時…業種によるが、輸送に便利か・人通りは多いか・大きな音を出しても問題ないか・十分な広さの土地が確保できているか・品質を満たす取水は可能か、といった要素。

単語だけ並べましたが、例えば河川一つをとっても、
 

  • 規模
  • 流れの速さ
  • 本流か支流か
  • 使途(生活用水、工業用水、農業用水など。また取水口の位置)
  • ダムの有無(大きさ、場所など)

など項目が分かれるように、知り尽くそうとすれば簡単にはいきません。まずは、一口に「地の利」と言っても、一朝一夕に分かるものではないことを理解しましょう。そのことを、具体的な事例をとおして見ていきたいと思います。

三方ヶ原の戦い

 後の「彼を知り己を知る」の項目でも取り上げていますので、ここでは簡単に触れるに留めます。
 これは武田信玄と徳川家康の二者による戦いです。信玄は家康の所領へ進軍する前段階で、人を使って現地の地理を調査し、我が庭の如く知り尽くしていたことが、歴史書に記されています。

遠州三河の絵図をもつて、両国嶮難の地、或ハ大河小河の出様、一村一里に渡、いくつ有、(或は)ふけ、たまり池、萬を遠州三河牢人衆に沙汰させ(以下省略)(磯貝正義、服部治則・校注『甲陽軍鑑』中巻)320頁

信玄は家康所領の地図を以て、険しい難所・大小河川の様子・泥田・たまり池、その他諸々を調査させていたことが分かります。その他諸々と表記したが、「萬」は「よろず」のことで、非常に数が多いこと・すべてといった意味をもっています。つまり、領主の家康以上に、その領内に精通していたのです。他国でありながら我が庭のごとしとは、まさにこのようなことを言います。結果だけ触れておくと、武田信玄の完勝で幕を閉じています。信玄が三方ヶ原台地を戦場に選んだのも、決して偶然ではないのです。

小田原合戦

 神奈川県小田原市を代表する観光地にもなっている、北条氏五代の繫栄の象徴・小田原城。城下町ごと囲い込んだ、総延長八キロにわたる「総構え」と呼ばれる極めて堅固な構造になっており、かつては上杉謙信や武田信玄をも退けた、我が国を代表する大城郭です。蛇足ですが、小生はこの総構えに沿って歩いたことがあります。
 本城は海を背後にし、城へ続く主要な街道を漏れなく抑え、幾多の支城によって幾重にも防衛線が築かれるなど、これでもかと言うほど地の利を最大限に活かした、力押しで落とすことはまず不可能な城でした。そんな無敵の城を落としたのが、豊臣秀吉です。この合戦の詳細な経緯については相田二郎・著『小田原合戦』に述べられているため、ここでは触れません。
 秀吉は予てより調査を行っており、無策で小田原城攻めをしたわけではありません。非常に緻密な調査を行っていたことが判明していますが、本項では地の利に関する部分を見ておきたいと思います。

了伯は、「関八州の城々山川大小道難所まで、残らず絵図にして差し上げた」という。(相田二郎・著『小田原合戦』)149頁

秀吉は佐野了伯に命じて絵図を提出させ、山・河川・道の大小から険しい難所、果ては城砦に至るまで、小田原城攻めに必要な地理的情報は把握していたことが分かります。合戦が始まる前から、既に秀吉にとって小田原城は「勝手知ったる我が庭」になっていたのです。相田二郎・著『小田原合戦』によると、石垣山には
 

  • 北部が非常な難所になっており、下の東海道を監視可能。
  • 本丸から小田原城を一望可能。
  • 箱根山付近の街道を抑える交通上の要所。

といった地の利があったことが述べられています。石垣山に本陣を置いた理由も、小田原攻めに最適な地であることをよく理解していたからに他なりません。この合戦の結果は、周知のとおり秀吉の勝利で幕を閉じています。

第二次長州征伐

 幕府と長州とが京都御所にて激突し、京都が焼け野原になった、禁門の変に始まる長州の苦難。そんな長州に現れたのが、我が国における近代兵制を確立した兵学者・大村益次郎です。靖国神社に銅像が立っていますね。
 1866年、幕府は長州へ進軍を開始。大村は石見方面にて千人の兵を率い、一万の幕府軍を迎え撃ちました。下図は、その際に大村が記した作戦図です。

           益田の幕兵に対する作戦図の原図(大村自筆)
            内田伸・編『大村益次郎史料』323頁

この作戦図を見ると、道・建物・河川・田・橋・裏道が詳細に調査され、左下付近には「此道三ヵ寺ノ敵兵敗走道」とあるように、幕府軍の逃げ道に至るまで把握・用意していたことが分かります。「敗走路の確保」先回、島津義弘の事例でも取り上げましたね。ここでは触れませんので、以下のコラムを参照ください。
力を引き出す組織マネジメント|最高の戦略教科書『孫子』を読む⑥ー3
 調査方法の一つとして、次のような話が伝わっています。大村は益田への道中、はしごを継いで拵えた非常に長いはしごを作らせ、これを用いて高所から地形を調べていたといいます。今でこそ、ドローンや航空写真など、調査手段は豊富にあるものの、「長大なはしごを作成する」という手法は、大村ならではのものと言えるのではないでしょうか。大村は地の利を最大限に活かし、十倍の戦力差をものともせずに幕府軍を打ち破ったのです。
 これが、世間一般に言われる「地の利」です。『孫子』を体得しますと、このような調査は自然と行うようになります。是非、あなたのビジネスや人生に役立ててみてください。今回はここまでといたします。

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都泰寛(講師)

株式会社因幡古典探究舎

漢学や古典を多様な視点からわかりやすく読み解き、ことわざや近現代の書籍、ビジネス書なども活用して講座や勉強会を開催。教養や読解力を身に付けるだけでなく、教育やビジネス、実生活に役立つ学びの場を提供。

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