部下のやる気を高め、勢いを引き出すリーダーシップ「兼聴―意見の求め方」|最高の戦略教科書『孫子』を読む⑩
「武経七書」の中でもひときわ異彩を放つ『孫子』
先回、『孫子』を除く六つの兵書について簡単にお話しました。今回はその続き、主役の『孫子』について、概要を見ていきましょう。
『孫子』の著者・孫武について
『孫子』とは、古代中国の春秋戦国時代、呉王闔閭(こうりょ)に仕えた兵法家・孫武の教えを言います。その事績は『史記』孫子呉起列伝に記されています。そのなかでも、闔閭に請われ、指揮の腕前を見せるという以下の逸話は特に知られているものになるでしょう。
王の寵姫を切り捨て、「指揮」を明らかに
闔閭の寵姫二人を隊長に、女性ばかりで部隊を二つ編成し、孫武は命令を下します。しかし、一国の王に気に入られている者が従うはずがありませんね。「卑しい者が何か言ってる」程度の認識で、実行されるどころか笑い者になってしまいます。皆様なら、ここでどう対応しますか?考えてみてください。
孫武は、「命令が徹底されないのは指揮官の責任」であるとし、初回は命令を繰り返し説明するに留めます。再び命令を下しますが、そもそも「指揮官として認識されていない」以上、やはり笑われるだけで実行されるはずがありません。ここでもう一度。皆様ならどう対応しますか?
ここにおいて孫武は、「軍令が明らかであるにも拘わらず実行されないのは、部隊長の責任である」とし、闔閭の制止を聞くことなく二人の寵姫を斬り捨ててしまいました。それまでの反応が嘘のように、部隊は孫武の命令どおりに動いたと言われます。
「専制君主制の時代において、君主のお気に入りの夫人を殺すなんてできたはずがない」など、史実性について種々議論がありますが、主旨に外れるため拙著『孫子』では触れていません。
しかし、「絶対的な専制君主制」だからこそ、法や規則の運用においては、特権階級とて例外は存在しない―これを明らかにすることは絶対です。
かつて法治を推し進め、秦を強大足らしめた商鞅。法律を施行した際、民が守らない原因が「特権階級による法の軽視」にあることを突き止めた商鞅が行った対応は、まさに孫武のそれと同質のものです。公正明大な信賞必罰は、安定した組織マネジメントに不可欠な要素になります。考える材料として、ここに提供しておきます。
『孫子』と戦国武将
『孫子』は計篇・作戦篇・謀攻篇・形篇・勢篇・虚実篇・軍争篇・九変篇・行軍篇・地形篇・九地篇・火攻篇・用間篇の全十三篇から成る兵法書で、古今東西の数多存在する兵法の頂点に君臨する一冊であります。この兵法の体現者として、我が国では「風林火山」を旗印とした戦国大名・武田信玄が有名でしょう。戦国最強の誉を恣にした無敗の騎馬軍団―最強足らしめたその根源は、まさにこの兵法書にあります。
同時代の島津義弘も挙げることができましょう。関ヶ原の戦い終盤、東軍のど真ん中に取り残された島津勢は、敵軍の中央へ突撃。家康がいる本陣の鼻先を掠め、そのまま脱出を図りました。この時、迫りくる東軍の前に飛び出し、一人また一人と我が身を犠牲にして島津義弘を脱出させた戦法は「捨てがまり」と呼ばれ、脱出劇自体は「島津の退き口」と言われて伝わります。命令されたわけでもないのに、部下たちは自らの意思で捨て身の特攻をしたわけですが、これは『孫子』を極め、「君臣一体」になっている組織でなければできるものでありません。そうでなければ、リーダーの首を手土産に降参―このような結果を招くことになります。
後の「無敗の方程式」の項目でも取り上げていますが実業家・大倉喜八郎の他、大蔵大臣・内閣総理大臣を歴任した松方正義もまた、『孫子』を身につけていた一人です。
物事に取り組むとき、綿密な調査を行い、実際に照らして実行可能な政策を立案し、できるだけ争いを避けながら目的を達するが、有事には迷わず果断の処置をとるという松方流は、孫子の兵法と無関係ではなかろう。(室山義正・著『松方正義』)22頁
武将から実業家、政治家まで|広く学ばれる兵書
武将のみならず、実業家や政治家まで、そして戦争からビジネス、政治まで―広く学ばれ取り入れられてきたのがこの『孫子』の兵法です。学び取り入れていた事柄や職業をみれば、まさに単なる軍事的な古典に留まるものではないことがよくお分かりになることでしょう。
今回は『孫子』の概要として、ここまでといたします。小生の『孫子』の解説を見て、この兵法の別格さを感じ、学びたい・取り入れたいと思う方が増えてくれるならば幸いです。



