帝王学を、鈴木貫太郎の奉公十則をとおして学ぼう 7-2
いよいよ鈴木貫太郎の奉公十則、最後となりました。それでは早速、10番目の「常に心を静謐に保ち危急に鑑みてはなほ沈着なる態度を維持するに注意すべし」
をみていきましょう。
組織に及ぼす、リーダーの影響力
指揮官やリーダーは、常に冷静であることが求められます。問題の当事者であっても、ある種の他人事のように装ったり振る舞ったりすることは、必要な技術の1つと言えます。その故は、見られているから。良いことであっても悪いことであっても、共通です。
節度を保つべし
リーダーの状態は、所属する組織に大なる影響を与えます。喜ぶべきことは共に喜べばいいのですが、度が過ぎれば狂喜乱舞の無礼講となり、節度が失われることになります。功績無き者にまで恩賞を与え、怒りも過ぎれば罪無き者まで罰する―これは、組織が崩壊していく要因の1つとなり得ます。
苦難・困難・災難に直面しても、心の内が見える形となって表れることは、慎まなければなりません。冷静さを欠き、狼狽する様子は、組織内の人員に動揺を招きます。1度統制が崩れて浮足立った状態から立て直すのは、困難なことです。往往にして、そのまま総崩れとなってしまうことは、多く歴史が証明するところでしょう。
『貞観政要』が説く、愚者と賢者を分けるもの
何事も、極端であることは避けるべきです。四書五経の1つに『中庸』という典籍がありますが、いずれにも偏らない「中庸」の徳は、誰しもが身につける徳目です。この「中庸」の姿勢・考え方が進んでくると、帝王学の教科書『貞観政要』の次の文言につながっていきます。
嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ。賢者は能く之を節して、度に過ぎしめず。愚者は之を縦にして、多く所を失ふに至る。(原田種成・著『貞観政要』)815頁
欲や喜怒の心は、賢者も愚者も等しく同じである。では、両者を分けるのは何か。賢者はよく節度を保って度を過ぎるということがなく、愚者はやりたい放題・ほしいままに振舞うため、多くのものを失うことになるのである―
- 欲に溺れて身を滅ぼした者
- 怒りの炎で全てを焼き払った者
「嗜欲喜怒の情」の赴くままに行動した者の末路は、洋の東西を問いません。節度を保つにも、最後は「身を修める」―「修身」につながります。帝王学の前段階にあるのが「修身」であると常々お話している所以がお分かりいただけることかと思います。
内心の動揺を抑えるため、あまり楽観的になり過ぎるのもまた適切ではないわけです。それも過ぎれば、「この人大丈夫か?」とかえって周囲の懸念を惹起します。何度か取り上げました、海軍大臣や内閣総理大臣を歴任した加藤友三郎のように、常に顔色を変えることがないポーカーフェイスを維持するように心掛けることは、1つのお手本となることでしょう。
緊急事態であればあるほど、「何も問題ないぞ」という姿勢を見せることが重要です。それは、述べてきたとおり「見られているから」。もっとも、そんな時ほど100%以上の力を引き出せるのが、小生が提唱する「日本型リーダー」が率いる組織です。
終わりに
今回で、シリーズ「帝王学を、鈴木貫太郎の奉公十則をとおして学ぼう」は最後になります。非常に濃い内容の、一端なりとも感じていただければ幸いです。さらに興味がある方は、お声がけください。



