帝王学を、鈴木貫太郎の奉公十則をとおして学ぼう 3-2
「奉公十則」2 常に徳を修め智を磨き日常の事を學問と心得よ
今回は「奉公十則」の2つ目、「常に徳を修め智を磨き日常の事を學問と心得よ」をみていきましょう。
「実学」の中国古典
「智を磨き」とは知識・知恵を学ぶこと。「徳を修める」とは学んだ知識・知恵を実践し、身を修めていくこと。学問と実行とは両輪の関係でなければならず、学問だけあって行動しないのでは所謂「論語読みの論語知らず」となり、机上の空論・学問に終わってしまいます。これはまた『論語』に「学びて思わざれば則ち罔し」と説かれます。学問だけで行動が伴わないのでは、学問をしたとは言いません。ただ知識を会得するだけでは基礎も築かれることなく、応用も効かなくなるのです。この部分について、渋沢栄一は
学問と思索とは、偏廃すべからざるをいう。蓋し学校において師より承けて書を読むのみにして、さらに推考思索せざる人は、単に博く事を知るのみにして、心に自得する所なく、すなわち昏愚にして、人間万事の用に応じ難し。(『論語講義』(一))109頁
と述べ、書を読むだけで考えることをしない者は、単に物事を広く「知っている」というだけであり、応用することはできないと明らかにしています。
日常のこと、是れ学問なり
学んだことは、日常生活という場において、常に実践を心掛けねばなりません。学問とは、先人たちの日常的な成功や失敗、人生哲学などが結晶化したものであるゆえに、日常のことがそのまま学問となるのであります。これは高橋是清も教えているとおりです。
今回は鈴木貫太郎の「奉公十則」の2つ目、「常に徳を修め智を磨き日常の事を學問と心得よ」についてお話しました。ただ掲げるだけでなく、鈴木貫太郎は自ら実践を旨としていましたので、渋沢栄一同様、説得力が桁違いです。兵書の1節、「用ふるに玄黙より大なるは無し」を常に服膺し、終戦まで導いた事実を1つとってみても、その学問や姿勢を窺うことができますね。今回はここまでといたします。
陽明学に説かれる「知行合一」。学問と実践は両輪の関係にあることを言う。



