教養がある人ってどんなこと?
『論語』の有名な一節 2
今回は、前回の続き―『論語』学而(がくじ)篇の教えをみていきたいと思います。
「己に如かざる者を友とすること無かれ」―己に劣る者を友としてはならない、というのが直訳になります。その言わんとするところは、「友とする者は選べよ」、これです。
如何なる存在を「友」と呼ぶのか
友人とは何でしょう。広義においては、所謂「仲の良い人」を言いますね。それに間違いはありませんが、「持つべき友」になると、かなり狭まってくるでしょう。
お互いに切磋琢磨して磨き合う存在こそが、持つべき友であります。当然、数が多い必要はないわけです。己に劣った者であるとそれができませんから、「友とする者は選びなさいよ」という論になりますね。これを学問を通じて実践することで、
- 互いに直言ができる
- 誠実さが備わる
- 博学になる
など、人格が修養されていきますので、これを同じく『論語』に「益者三友」と説かれるのです。友を見極めることで、既に『論語』の教えの2つが体得できるということになります。
しかし、己に劣る者がダメかというと、そういうわけでもありません。そうなるか否かは、心1つで分かれます。
「他山の石」「反面教師」など、お世辞にも褒められないような人を悪しき手本として、戒めよという意味で使われる古語ですね。これが「己に如かざる者」のことですが、このような存在は、まさに「そうなってはならない悪い見本・手本」とすべきであります。具体的には、
- 誠実さがない
- 正直でない
- 口だけ達者
このような者を言います。これを同じく『論語』に「損者三友」と説かれるのです。いずれも、信用とは無縁の方々になりますね。実業家・大倉喜八郎は、信用無き者を「首の無い人間のようなもの」とバッサリ切り捨てていますが、『論語』のこの一節は、持つべき友を誤らないことがそのまま自身の修養になることを教えるものです。
古くも新しくもない解説
『論語講義』のなかで、渋沢栄一がほぼ同じことを講義していたことを知った時は、「帝王学」は時代を超えて通用する、原理原則を説いているんだなと感嘆しました。この故に、私が教えていることは、古いようで新しくもある、そんなものになります。今回も長くなりましたので、この一節は次回で最後にしたいと思います。今回はここまでといたします。
本日の原文(書き下し文)
子曰く、君子重からざれば則ち威あらず。學べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ。(吉田賢抗・著『論語』)25頁




