自分がされたくないことは、人にもしないようにしよう!|中国古典の代表格『論語』の教え①
『論語』に見る、「教養がある人」とは?
中国古典とは、「学び」と「実践」が両輪となっている「実学」である―いつもお話しているとおりです。机上の域を出ない中国古典の学問は所詮空論であり、「論語読みの論語知らず」で無意味なもので終わってしまいます。
1番良いのは、学問と実践を伴わせて自己を研鑽していくことでありますが、
「たとえ学問がなくとも、教えられていることが意図せずして実践できている」―
このような人もまた、「教養がある人」と言うことができるのです。実践していく上での原理原則を学ぶのですから、理にかなっていることになります。これを『論語』に次のように言います。
未だ學ばずと曰ふと雖も、吾は必ず之を學びたりと謂はん。(吉田賢抗・著『論語』)24頁
教えが実践できてしまっているならば、まだ学問をしていない人であっても、そんな人こそ学問をした人と言うのだ―
孔子の弟子の1人、子夏の言葉です。学問を好み、文才にも秀でていたと伝えられます。中国古典においては、このことが肝要なのです。これを、国務大臣を歴任した財政の専門家・高橋是清は次のように述べます。
學問は古來幾多の先輩が啓發して集めたもので、唯學問を學修したと云ふのみでは、先輩が遺した図書にも及ばぬと云ふことになる。學問は之を使つてこそ、始めて、効用がある。(高橋是清・遺著『随想録』)137頁
これに続けて、成功しない者の「重大な」原因の1つは、学問の奴隷になっているからと指摘しています。所謂、学問のための学問ですね。
学・行こそ中国古典の要
学問は大切なものです。日々それを実践していくことは、なお重要となります。帝王学とはこの先に存在する学問であり境地ですので、共に研鑽していきたいと思います。今回はここまでといたします。
蔵書 新釈漢文大系『論語』



