ウマい話は存在しない―黄金の糞をする石牛
商・於の地方六百里~秦の張儀と楚の懐王~
ありもしないウマい話に騙されるのは、今も昔も変わらぬ人間の姿です。以前「黄金の糞をする石牛」と銘打ってお話しましたが、今回もまたうますぎる話に騙され、国を亡ぼしかけた君主の故事になります。中国の史書には珍しくもない類のものですね。この故事も教訓に富むものとなっております。
張儀の離間策
西の大国・秦の恵文王は、東の大国・齊を攻略したいと思ったが、当時齊は南の大国・楚と同盟関係にあり、迂闊に手を出せない状況であった。宰相の張儀に相談したところ、「ひとつ、お任せください」と引き受け、張儀はさっそく楚の懐王の元へ向かった。
張儀は楚の懐王を褒め称え、気を緩めたところを見計らい、楚・齊の同盟解消をもちかける。もちろん、タダではない。同盟解消がもたらす利点を力説する。即ち、
- 秦から楚へ、商・於の地方六百里という広大な領土を献上する。
- 齊は孤立し、弱体化させることができる。
- 秦へ巨大な恩を売りつけることができる。
これこそ、一石二鳥どころか一石三鳥の妙策であると言葉巧みにセールストークを展開したのである。一見すると理にかなっているように思えるのが、恐ろしいところだ。
惨事を回避できる機会①
張儀の話を真に受けた懐王は、朝廷でこの「成果」を吹聴し、群臣が祝福するなか、ひとり陳軫(ちんしん)は黙っていた。不機嫌になる懐王に対し、陳軫は次のように述べる。即ち、
- 土地が手に入った訳でもないのに、斉と断交すると楚は孤立する。
- 秦から先に土地を渡してくることはあり得ない。
- 断交してから土地を要求したところで張儀に騙される。
- 従って、大国・秦と揉めることになるうえに、断交した斉は秦と組んで攻めてくることになる。
しかし欲に溺れる懐王には、理路整然とした言葉は届かない。断交を強行してしまうが、惨劇を回避できる機会はまだ残っていた―
惨事を回避できる機会②
同盟解消を強行した楚の懐王は、張儀に約束の土地を要求するため、使者を派遣する。使者が耳にしたのは、信じられない言葉だった。
「お約束の土地は、ここからここまで六里でございます」―
驚天動地の使者に対し、「貧賤の出身である私に、六百里などという土地があるはずないでしょう」とぬけぬけと応対。なす術がない使者は事の次第を懐王に報告するが、懐王は激怒する。再び陳軫が危機を回避できる策を進言する。即ち、
- 楚の有力な土地を一か所秦に献上したうえで、秦と手を結び、斉を攻撃する。失う土地の代償を斉から取り、差引ゼロにすることができる。
- 今現在孤立しているにも関わらず、騙された責任を秦に求めることは、秦と斉が手を結ぶ口実をむざむざ与えるようなもの。火傷ではすまない痛手を被る。
しかし、怒りに燃える懐王にはまたしても届くことなく、惨劇を回避できる最後の機会は失われてしまう。失われるよりは、懐王自ら捨てたと言うべきであろう。
結局、懐王は秦に対し挙兵。密かに齊と手を結んでいた秦の陣営に、なんと韓と魏まで加わり、楚は単独で四ヶ国連合軍と戦うことに…勝利できるはずもなく、楚は大敗北。これが、「商・於の地方六百里」と銘打った故事である。
今回の教訓
- 情報は正確に分析すべし。明らかにうますぎる話には、特に一歩引くのが良い。
- 兼聴と偏信―自分の意見に同意する者の話だけ聞くのではなく、隔てなく耳を傾けるべし。
- 怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。
少々長くなりましたが、今回はここまでにします。帝王学に資するものが多いこの故事は、個人的に好きなものですね。
「蛇足」という熟語、広く知られているものですが、この故事の主役の一人、陳軫がこの熟語の成り立ちに関係します。また機会がありましたら。



