「帝王学」ってどんなこと?
古典が説く、智者と愚者
失敗を繰り返す者有り、被害を抑える者有り、失敗しない者有りと、様々あることでしょう。もちろん皆さんは、被害を軽微なものにするか、そもそも未然に発生を防ぎたいことかと思います。古典には、そのモノサシが教えられておりまして、それは帝王学の1つでもあります。さっそくみていきましょう。
愚者とは―成事に昧い
まずは、それぞれの定義から述べましょう。「既に問題として顕在化しているにもかかわらず、それでもなお分からない者―」これを古典では愚者と言います。
智者とは―未萌に見る
「問題が目に見える形で表面化する前に、その兆しが表れた時点で対処する―」これを古典では智者と言います。
大事はみな小事より起こる
いきなり大事として問題が発生するということは基本的にありません。その前段階として、多くの小事が起きています。従業員の大量退職を例にしましょう。これは十分大ごとですが、突然起きることはないということです。
- 劣悪な労働・職場環境
- ギスギスした人間関係
- 上司や経営者の姿勢・考え方
- 不満を招く待遇
- 不公平な信賞必罰
など、様々な「小事」を放置し続けた結果として、従業員の一斉退職という大事が起きるのです。
2つある小事
ここで大切になるのは、「すべての小事に対処する必要はない」ということです。
正真正銘、取るに足らぬ小事は放置して構いません。むしろ、リーダーや経営者が重箱の隅をつつくようなことをしていては小物に見られてしまい、信頼されません。では、対応しなければならないのはどういうものでしょうか。
「燎原の火」という四字熟語があります。初めは小さな火でも燃え広がり、周辺を焼き尽くしてしまうことを言いますが、放置してはならないのはこのような小事を言います。例えに挙げました「不公平な信賞必罰」はその典型ですね。この場合、他の項目も取るに足らぬ小事とは言えませんが…これが、上記で述べている「未萌」―兆しとなります。
智者はこの兆しを見極めて対処するために、そもそも失敗することがないか、被害も軽微なものとなるのです。トヨタの初代クラウン開発の過程で良い事例があるのですが、あまり長くなりましたので機会があれば。今回はここまで。
今回の学問的根拠
凡そ大事は皆小事より起る。小事、論ぜずんば、大事、又、將に救ふ可からざらんとす。社稷の傾危、此に由らざるは莫し。(原田種成・著『貞観政要 上巻』1978年発行 明治書院)72頁
愚者は成事に昧く、智者は未萌に見る。(林秀一・著『戦国策』一九七七年発行 明治書院)739頁