「不動産のプロができること、法律家にできないこと——相続に潜む“見えない壁”を越えて」

藤木賀子

藤木賀子

テーマ:親の家





1】思わぬ“名前”から始まった相続相談


「遺産分割協議書を作ろうとしたら、父の戸籍に知らない名前があって…」
相談のきっかけは、亡くなった父親名義の不動産――築古のワンルームマンション一室を売却し、その代金を兄弟で分けようという話からだった。 兄弟は3人。
遺産分割協議書を作成しようと戸籍を取り寄せたところ、思いがけない事実が明らかになる。 父には、前妻との間に子どもが一人いた。そしてその子の名前が、戸籍上にしっかりと残っていたのだ。
「父は、昔その子とは縁を切ったって言ってたんですけど…」 相談者自身も、その存在をはっきりと認識していたわけではなかった。聞かされたことはあっても、実感としては“過去のこと”だったのだろう。
だが、現実は違った。 戸籍に名前がある以上、その人物は法定相続人であり、遺産分割協議には必ず参加しなければならない。サインがひとつでも欠けていれば、不動産の名義変更も売却もできない。
「どうしたらいいんでしょうか…?」
その一言から、今回の案件は動き出した。

【2】連絡はついた、でも返事はない


まずは戸籍の附票をたどり、異母兄弟の現住所を特定。 配達証明付きで遺産分割協議書に関する手紙を送付した。 結果は「配達済」。つまり、届いてはいる。 だが、返事はないという状態から。
宛先不明で戻ってくるならまだしも、届いたうえで無視されている可能性があると、ご家族も不安になっていた。
「場所も遠くないし、できれば直接話せれば…」 そんな想いが高まる中、話は進展しないまま時間が過ぎていく。 一方で、相続人全員の合意がなければ、不動産の売却には進めない。 媒介契約も締結できず、資産整理はストップしてしまっていた。

【3】まずは物件の実態を把握する


そこで提案したのが、不動産の査定。 連絡がつかない相続人がいたとしても、いずれ合意に向かう場合を見越して、売却価格の目安を明確にしておいた方がいい。 「金額がわかれば、話しやすくなる」
という心理もある。
対象の物件は、35平米のワンルーム。築年数が古く、建築当時から事業用として使われていた。 駅からは近く利便性は悪くないが、物件自体は旧耐震で、管理状態も万全とは言いがたい。 登記上も「事業用」となっており、買主が住居として利用するには用途変更が必要だった。
ただし、1階から3階までは事業用が多く、4階以上は居住用。 今回の部屋は居住用としての利用が可能な位置にあり、登記の用途変更はできる見込みだった。

【4】旧耐震というリスク


ここで「旧耐震」という言葉が重くのしかかる。
1981年6月以前に建築確認を受けた建物は、いわゆる「旧耐震」に分類される。 その後の法改正により、建物の耐震基準が大幅に強化され、震度6強〜7程度の大地震でも倒壊しない構造が求められるようになった。
しかし旧耐震の建物は、その基準を満たしていない可能性が高く、耐震診断や補強が必要となるケースが多い。 融資がつきにくく、買主が限定されるという大きなハンデがある。
今回のマンションも例に漏れず、耐震診断は済んでいたが、結果は「補強が必要」。 しかも、実際の補強工事は未実施だった。 これにより、買い取りを検討する業者もごく限られてしまう。

【5】条件付きでもなんとか買い手を探す


業者に買取査定を依頼し、条件付きで価格の目安を出すことができた。 ただし条件は厳しく、「決済時には居宅登記が完了していること」が必須だった。 用途変更の手続きや登記変更には時間も費用もかかる。 また、補強工事をしないまま売る場合の価格は大きく下がる。
それでも、売却に向けての道筋はなんとか見えてきた。 残る課題は、ただひとつ――異母兄弟の同意。

【6】弁護士に相談、でも費用がネックに


弁護士に相談したところ、「不在者財産管理人の選任」
という手段があると教えられた。 家庭裁判所に申し立てて、連絡のつかない相続人の代わりに手続きを進める方法だ。
だがこれは、数ヶ月単位の時間と、決して少なくない費用がかかる。 今回のように資産額が限られているケースでは、そのコストが大きな負担になる。 「できることなら、直接話せれば一番いいんですけど…」
そんな思いが再び強くなる。

【7】不動産業者として、もう一歩踏み込む


私は、戸籍に記載されていた住所に直接足を運ぶことにした。 表札もなく、本人が住んでいるかはわからない。 インターホンを押しても反応はない。
ただ、戸籍を調べた段階で、気づいたことがあった。 なんと、前妻――その方の母親も、同じマンションの別の階に住んでいたのだ。 母親は持ち家で、住民票も一致している。
こちらの部屋にも足を運んでみたが、不在。 「今度は夕方に行ってみよう。電気がついていればわかるかもしれない」 そう考え、再訪した。

【8】ようやくつながった心のバトン


夕方、再訪した際、玄関が開いており、中には高齢の女性がいた。 事情を丁寧に話すと、女性は大きく目を見開き、驚き、そしてかなり前夫の死に動揺し泣き出した。
「何も知らなかった、申し訳なかった」伝えるとは言ってくれたが、なにか混乱しているのか何度も同じ話を繰り返すので、正しく私の話を理解できるのか不安になった。もしかすると、手紙を受け取ったのは母で、子供に渡していなかったのかもしれない。
その数日後、異母兄弟本人から連絡があった。 状況を理解し、協議にはすんなりと応じてくれた。 書類へのサインも済み、司法書士への依頼もスムーズに完了。
長く止まっていた相続手続きが、ようやく動き出した瞬間だった。

【9】不動産のプロにできること、できないこと


今回のような案件では、法律の専門家が必要な場面も多い。 だが同時に、法律家では“動けない領域”というのも存在する。
不動産業者は、法的代理はできない。 けれど、現地に足を運び、人と接し、状況を肌で感じ、対話することができる。
そして時には、そうした“行動”こそが、最も必要とされる場面がある。
誰に何を相談したらいいかわからないというとき、まず不動産のプロに話をすることで、 最適な専門家との橋渡しもできるし、先の見通しも立てやすくなる。

【10】相続とは、ただの分配ではない


相続は、単に「お金やモノを分ける作業」ではない。 それぞれの立場や感情、そして過去の人間関係をも調整し、未来へとつなぐ作業だ。
今回は、忘れ去られていた存在との再会があり、 家族の“想定外”を丁寧にひとつずつほどいていく過程があった。
法律、登記、査定、交渉――すべてを一人で進めることは難しい。 でも、その“間”を埋める存在として、不動産のプロフェッショナルがいる。
私たちは「物件を売る人」ではない。 人生の節目に寄り添い、問題の本質を見抜き、道をつくる仕事をしている。

そのことを、今回の案件であらためて実感しました。

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藤木賀子
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