日報のすゝめ
限りなく退屈な練習
大学生の時だったと思います。習ってたピアノ教室の恩師が突然変わった練習方法を言い出しました。『かなり弱い音で指一本一本をゆっくり弾き、鍵盤をたたいた瞬間に一気に力を抜く』というものでした。弾くというより、単に鍵盤を押さえる、それが延々と続く練習方法でした。言葉で言われてわかったつもりになっても、どうやら恩師が思い描くものとは程遠いのか?ずっと『違う!そうじゃない!』を恩師は連発していました。恩師曰く『今は退屈だけど、いずれはと小さな音でも遠くまで聞こえるような音色になるから…』でした。そんなことが数ヶ月、いやそれ以上でしたか?続きました。しかも、その間、いわゆる楽曲の練習は無いに等しい状態でした。
自分の位置が全くわからない
とにかく憂鬱でした。最も困ったのはこの退屈な練習を始めて何がどう変わったのか?全くわからず真っ暗な荒野に放り出された状態だったことでした。恩師からは『今の苦しみを通り越せば…』ばかり言われていましたが、『いったいいつになったら通り越すねん???』でした。次第に頭もヘンになって来ました。音楽って『音を楽しむってことなのに、全然楽しくない!』そんな状態が続きました。
この時思いました。『人というのは少しでも進歩があって、それを認識すれば非常に安心するものだ』ということを…この考え方は現在、技術顧問先などで重要としており、何か少しでも改善したことがあれば必ず言及するようにしております。
恩師も手探りだった
この変わった練習法、恩師も手探りでした。自らの教室にも新しい事を取り入れ、より良いものにしたいという意気込みは良かったと思います。そのために、どこぞのセミナーか何かで、この練習法を知ったのでしょう。もっとも、恩師も実に退屈な練習方法ということはわかっていたようです。なので、『小さい子供にさせると直ぐに(教室そのものを)やめてしまうやろうから、ユタカくんにと…』
『どういう意味やねん???』と思ってしまいました。どうやらピアノ教室で唯一やっていた(やらされていた?)ようです。
あれは意味があったのでは?
あの退屈な修行、いつまでやっていたのか?良く覚えておりませんが、その後、大学院での勉強に注力すべきこともあり、ピアノ教室には行かなくなりました。更にピアノを全く触らなかった時期もあったのですが、10年程前に再び弾いていて、ふと思いました。確かに力を抜くと、音が響くのです。あの退屈な練習、実は意味があったのでは?あの時何かを体が覚えたのでは?と思うようになりました。
電子ピアノはダメ!
恩師は『電子ピアノは絶対にダメ!論者』でした。『子供の時にうっかり電子ピアノで始めると、その後、何をどう頑張っても良い音色は出せない』とか語っていました。もちろん、恩師の私見なので、正しいかどうか?わかりませんが…
ただ、ピアノの原理を考えば当たっているようにも思います。既にご説明の必要もないかとは思いますが、ピアノは弦をハンマーで叩いて音を出します。弦は振動して音が出ます。ただ、ハンマーをそのままにしておくと、弦の振動を止めてしまいます。そこで、一旦上げたハンマーを下げて、ハンマーを弦の振動領域外に持って行かなければなりません。そのためには指に力を入れてハンマーで弦を叩いたものの、弦を叩いた瞬間に指の力を抜き、ハンマーを下げる、それを連続的に行うということです。しかもそれをおそらく100分の数秒とかの間でやり続けるってことなのでしょう。これで、上記の退屈な練習と繋がって来ます。
ちなみに、以前、家電量販店で電子ピアノを触っていたら、販売員のオバハンがやって来て『このピアノは名高るピアニストの先生方が推奨しています!』と誇らしげに語って来ました。ただ、上記を鑑みると『名高るピアニストは本当に心底推奨しているのか?』と思ってしまいます。『実は弟子には違うことを言っている。』『広告に載るギャラが欲しいのと、名前も売りたいし…』ってことかもしれません。
てなことで、弦をハンマーで叩く物理現象を電子回路で再現させることはほぼ不可能ではないか?と思います。既成概念を変える!現状打破を目指す!技術屋としては、複雑な思いですが…
退屈な修行にも意味がある?
そんなこんなで退屈な修行のお話でした。恩師がまだ生きていたら、今振り返って、あの練習について話がしたいものです。それでも恩師には良き思い出が多いです。よくよく考えれば約20年間もの長きの間、世話になった人、他にはそんなにいないです。ピアノの腕はさほど上がらなくても、精神的な影響は多く受けていました。後に『結婚式の披露宴に誰を呼ぼうか?』と考えた時に真っ先に恩師はいました。そして恩師も『それを物凄く喜んでいた』と後年になって恩師の息子さんから聞きました。
そう言えば、大学院生の頃は有機合成の実験が多く、時間さえあれば『実験台に貼り付け!』と言われ続けていました。正直、実験台に貼り付いているのは退屈でした。それが今になって非常に重要な意味を持つと考えるようになりました。結局、『目の前で起こっていることは正しい!』ということです。物凄く高い評価を受けている研究例でも、実際にこの手で確認したかどうか?となると、ほぼ100%『そうでない』となります。もちろん、権威のある論文誌に載った研究例は厳しい審査を経ていますので、真実と捉えるべきでしょうが、究極には嘘の可能性もゼロではないということです。『実験台に貼り付け』はそういう意味だったのでは?と思います。最近は、怪しげなSNSなどの情報に躍らせれていることが大きな社会問題になっていますが、この目で見る、その場で確認する、直接聞いて一次情報を仕入れる、こういったことが非常に重要ではないか?と考えます。




