30年も前、既にメールに対する懸念が…
大学入試の原本が…
最近、部屋の整理をしていると、かつて受験した大学の入試問題の原本が出て来ました。
物理の問題、ざっと下記のようなものでした。
問題 I
図のように、つるまきばねの下端に、質量m[kg]、長さl[m]、電気抵抗R[Ω]の変形しない一様な導体棒PQをとりつけ、つり下げたところ、導体棒は自然長よりd[m]だけ伸びた位置Oで水平に静止した。(途中略)磁界はPQにだけ作用するものとして、以下の各問に答えよ。
(1) 導体棒のxの方向の変位と時間t[s]おの関係を表す式を求めよ。(ただし、導体棒は横ゆれや回転はしないものとする。)
(2) このとき、PQに一定電流I[A]を流すためにどのような電圧をかけなければならないか。
問題 II
理想気体とみなすことができる一定量の気体を、圧力を一定に保ちながら熱したとき、加えた熱量の25%が外部に対する仕事に使われた。この気体を150℃より断熱的に膨張させて、圧力をはじめの値の25%にしたとき、気体の温度は何度になるか。(以下略)
完全な記述式であった。
解答用紙は全くの白紙で、完全な記述式でした。
問題用紙に落書きがたくさん残っていたので、あれこれ考えたみたいです。
解答用紙に何をどう書いたのか?全く覚えておりませんが、一応合格したので、0点ではなかったのでしょう。
長年の疑問
ここで長年の疑問がありました。
『記述式の答案、採点する方も大変ではないか?』ということです。
この大学、日程の関係で、当時は大量の受験生が押し寄せる大学でした。受験した時は競争率が23倍でした。もっとも、実際には他大学へ流れる受験生も多くいたようで、実質の倍率はずっと低かったと思います。私もせっかく合格したこともあり、非常に悩みましたが、結局他大学へ進学しました。
ただ、入学試験は他大学の合格発表より前に行われるので、志願者はほぼ全員受験していたはずです。そうなりますと、かなり多くの答案を処理しなければなりません。選択式のように答が決まっていれば、採点もまだマシでしょうが、敢えて大変な白紙を与えて記述させるのは、何か理由でもあるのか?と思っておりました。あるいは、本当の実力を見るには、記述式でないと不可能ということなのでしょうか?
下書きも状況証拠
中公新書(現在は中公文庫)の『数学受験術指南』(森毅著)には京都大学における、数学の入学試験の採点での内幕が記されています。
(数学受験指南術)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2012/09/205689.html
https://www.chuko.co.jp/ebook/2023/12/518753.html
『たとえば、「aが0でない」ことに留意してなかればマイナス3点、なんて基準になることがある。この場合に、答案にエクスプリシトに書いてなくとも、留意のあとが見られればよい、というただし書きのつく採点基準もある。
とくにこうした場合、下書きの計算からなにから、状況証拠になる。なかには、消しゴムで消したあとを、すかして見たりして。調べている採点者まである。
本来なら、答案として客観的に表現されたものだけが対象なのだが、その表現にいたる過程が、その受験生のわかり方の本質にかかわるものだから、下書きだのまでが生きてくるのである。いわば、作家論をやるのに、創作メモやデッサンのたぐいが、手がかりになるようなものだ。
もちろん、答案そのものがシッカリしていれば申し分はない。しかし、採点者の眼から見れば、大多数の答案は、答案と呼べる表現にはほど遠い。それで、下書きまで見なければ、なんのつもりかわからんことが多いのである。
できることなら、採点者は受験生の頭の中をわってみたい。せめて、どういうつもりでこんなことをしてるの、と質問したいことがよくある。それを紙の上だけですますのは、もちろん限界がある。それでも、その限界に挑戦しようという採点法もあるのだ。』
これが、大量の受験生が押し寄せようとも、きれいさっぱりな白紙の解答用紙を与える記述式だった理由でしょうか?
いずれにしても、私は入学試験どころか、試験と呼べるもの全ての採点すらしたことがありません。全く無知の領域です。
現役の大学関係者より
そこで、現役の大学関係者に尋ねてみました。
非常に貴重な声を得ることができました。ほぼそのままご紹介することに致します。
『100%、選択式の方が採点しやすいです。
もしご存じなければこれだけは強調しておきたいのですが、我々は、入試(学部入試、院試、編入学試験など)に、ものすごい労力と時間を費やしています。
学生の人生を左右する重要イベントですので、出題ミスがあってはいけない、採点ミスがあってはいけない、ものすごく神経を使い、何人もの教授が、何回も集まって、作題をします。
正直なところ、このような神経を使う状況で、記述式の問題を出すのは、リスクでしかありません。採点が大変です。
しかし、ご指摘の通り、学生の実力が如実に分かるのは記述式です。勉強していなければ何も書けません。ですので学部の入試(大学にとって一番力を入れる入試)では、リスクや労力を覚悟の上で、記述式の問題を出します。
採点は大変です。細かく部分点を設定し、最低2人でクロスチェックをして、採点者によるブレが生じないように努めます。選択式とは比べものにならない大変さです。』
研究者は『物書き』屋
続いて、作文能力の重要性について尋ねたところ…
『おっしゃる通りで、うちの学生によく言うのですが、我々研究者は、理系のように見えて、最後は「物書き」屋でないと食っていけません。教員として年を経るにつれ、「国語」の重要性を痛感します。英語も、国語力あっての英語力です。
そういう意味で、記述式は理想なのですが、人手、時間的制約の中で、現実的には選択式も組み合わせて出題せざる得ないというところです。
ただご存知のように、センター試験→共通テストの変化は、単に名前が変わっただけでなく、「暗記穴埋めから、記述などの論理的思考力を問う試験へのシフト」という方針を文科省は明言しています。なかなか一朝一夕にはいきませんが。
そしてその結果、大学教員はさらに時間を割かれ、研究時間が削られる苦しい立場になっていっています。(最愚痴)
今の若い人は、まず、本を読むこと、長文を読むことが少なくなった。箇条書きのような文章は書けるが、センテンスを組み合わせての論理的な文章を書く能力が著しく低下していると思います(そもそもその機会がない)。そういう意味で、ウチの研究室では、週報の考察は、箇条書きでなく、ちゃんと接続詞でつながれた文章で書くよう指導しています。研究結果がどうであれ、まとまった文章を毎週書いていれば、3年間でかなり差がつくよと。
そういう意味で、セミナーで、論理的文章を書くことの大切さ、今の若い人がそれを軽視していることの危うさに警鐘を鳴らされるのは、的を射ていると思います。
今の若者の論理的文章力の低下は、「アレクサンドラ構文」というキーワードで話題になっています。例えば↓ セミナーのネタとして使えるのではないかと思います。
中学生正答率38%の「アレクサンドラ構文」 “機能的非識字”にはリスクも? 「IQとは違いトレーニングで良くなる」鍛え方は
https://news.yahoo.co.jp/articles/f505f94449606030a14396a2e2d660513fbf255b』
英語より国語
やはり、以前申し上げましたように、『英語より国語』ってことでしょうか?
(英語より国語)
https://mbp-japan.com/hyogo/banyohkagaku/column/5148943/
入学試験が大学を圧迫する
そして非常に気になったのが、『そしてその結果、大学教員はさらに時間を割かれ、研究時間が削られる苦しい立場になっていっています。』の箇所です。
今や大学は一年中入学試験をやっています。ただ、試験実施日だけでなく、試験問題、試験後の解答用紙などの保管一つ取っても、金庫に入れて、厳重にしなければなりません。『試験の度にその繰り返しで、ストレスは溜まる一方!』という悲鳴を随分前から聞いております。
にもかかわらず、何かあればスグに『日本は研究論文の数が少なくなった!』、『近隣諸国にすっかり差を付けられてしまった。』、『チェレンジ精神がない!』、『ハングリー精神がない!』などと、世間では年齢層が高い人たちを中心に嘆きと嫌味の声が溢れています。しかしながら、具体的な解決策は一切示されず、捉えどころのない抽象論ばかりです。なぜでしょうか?答は簡単です。現実を全く知らない、聞く耳も持たない無責任野郎ばかりだからです。




