TOEICという悪夢
皆様方お世話になっております。
播羊化学研究所の辻村でございます。
日々雑感を綴っております。
前回のコラム『英語という魔法』では、英語の存在感の高さについてを申し上げました。
どうも私たち多くには英語に対する憧れとコンプレックスが混在しているように思います。
確かに英語が得意であれば、それは素晴らしいことです。
しかしながら、もしそうでないとすれば、英語というものは、不安を煽るには格好の材料です。
私の場合も英語がさほど得意ではなかったことが災いしたのか、若いころは『これでは研究者としてはやって行けない。深刻な問題だ』といろいろな人から脅されたものでした。それはそれで当たっている部分があり、否定はしません。
ただ、最も困ったことは、こちらがいくら深刻に捉えて、何とか改善しようともがいたところで、なかなか良い改善策が見つからなかったことです。
将来に対する不安は大きいものです。
その後も、任期制の研究職に就いている人いる時、先輩方から『俺の時は良かったよ。今は大変だ、大変だ』と言われたりすると、本当に不安になったmのです。話自体は事実だし、受け入れなければならないのですが…
それでも英語、何とかならないか?ということで、『とある有名経済評論家は学校にもろくすっぽ行かずにひたすらFEN(在日米軍向けラジオ局、その後AFNに改名)を聞いて成功した』とか、日本にいても、一日中英語で生活すればよい、とか、何十年も前の教科書であっても、定評のあるものであれば、効果は絶大であるとか、いろいろありましたが、なかなかしっくりくるものはありませんでした。
英語、どうすれば良いのか?
結局、誰もわからないのでしょうか?
しかしながら、その存在感だけ大きいのです。
その結果、ありとあらゆる英語教育産業が発達したものの、なかなか結局決定打もないのでしょうか?
言い換えれば、何でもアリだからこそ、いろいろなアプローチの仕方があり、その人その人にあったやり方があるのだろうと思います。
てなことで、『英語が不得意だと、お先真っ暗だ!』と言われて来ました。確かに私の場合も、職を転々として、挙句の果てに、しがない自営業を営んでいるわけですから、当たっているのかもしれません。
しからば、『これまで英語で困ったことはあったのか?』と聞かれれば、そうでもないというのが事実です。
まぁ、英語がダメでも、さほど気にする必要はないのでは?いつしかそう思うようになりました。
こうなったら、方向を変えてみるのも一手かと思います。
時には開き直ることも必要かもしれません。
それについては、改めて申し上げたいです。