水景前の心の行き来
無意識の入り口以前のコラムで、
水景をぼーっと見ている人の話を書きました。
待合室やロビーなどで、
水景の前に立ち止まる人がいます。
魚を観察しているわけでもなく、
スマートフォンを見ているわけでもありません。
ただ、水景を見ています。
何をしているわけでもない時間のように見えますが、
この光景は同じような空間で繰り返し見られます。
水景の前で少し立ち止まる人。
椅子がある場所では、そのまま座って見ている人。
そういう空間には、ある共通点があります。
空間の重心が整っていることです。
以前のコラムでも書きましたが、
人は無意識のうちに空間の重心を感じ取っています。
重心が落ち着いている空間では、
視線は自然とそこに向かいます。
その結果として生まれるのが、
水景をぼーっと見ている時間なのかもしれません。
水景の作業をしているとき、
ラジオを流していることがあります。
作業に意識を向けているはずなのに、
突然笑ってしまうことがあります。
ラジオを聞こうとしていたわけではありません。
それでも笑ったということは、
どこかで言葉を拾っていたのかもしれません。
人は強く何かに意識を向けていない時間でも、
その裏では何かを処理していることがあります。
水景の前で静かに座っている人を見ると、
その状態に少し似ているように感じることがあります。
水景は、その時間を邪魔しません。
むしろ、その時間の背景になります。
水景の役割は、
魚を見せることだけではありません。
人がぼーっとできる時間を、
空間の中に生むことです。
空間の重心、光、周囲の動き、人の導線。
そうした条件が整ったとき、
水景は静かに機能します。
水景は装飾ではなく、
空間の環境設計です。
その空間の中で生まれる
「ぼーっとする時間」。
それが、水景が機能している
一つの形なのかもしれません。
この記事は空間の重心というコラムとも繋がっています
→空間の重心
そして意識が強く占有されない時間については
→無意識の入り口
更にその時間の流れについては
→見えない時間の設計



