新年を迎えるために、ととのえるということ
こどもの頃、身のまわりにあるものを一つずつ言葉にして覚えていった。
言葉をたくさん知り、理解を重ねていくことが「大人になる」ということだと思っていた。
やがて言葉を使って文章を書き、ブログで自分の世界観を伝え、詩のような表現にも触れるようになった。
とはいえ、私は作家でも詩人でもない。専門家ではなく、いわば素人だ。
それでも、自分の内側にしっくりくる言葉を探し、書きながら確かめることは続けている。
建築士として仕事をしていると、ときどき耳にする言葉がある。
「私は建築は素人なので」。
久しぶりにその言葉を聞いたとき、胸の奥に小さなもやもやが残った。
その違和感を、今回あらためて言葉にしてみたいと思った。
私たちは皆、生まれてからずっと「家」という空間で暮らしてきた。
育った家庭環境に違いはあれど、現代の日本で生きる以上、似たような空間体験を重ねている。
言葉を覚えるように、人は様々な場所を訪れ、体で空間を感じ、その記憶を蓄えてきたはずだ。
けれど、その体験をどう読み取り、どう表現するかを教わる機会は、なかったように思う。
学校教育では、暮らしの足元にある家よりも先に、地域、国、そして世界へと視野を広げていくことを教えられきた。
その教育が行われる部屋では、整理・整頓が大切なこととして教えられてきた一方で、人の住処である家そのものについて学ぶ機会は、ほとんど用意されてこなかった。
我が家では暮らしの中には別の学びがあった。
出かける前に家を整える母。
箪笥を動かして模様替えをする祖母。
用途を固定しない、日本的な感覚の子ども部屋。
私は言葉より先に、体を通して空間を理解していたのかもしれない。
その後、私は建築という「プロの世界」に入った。
けれど、居心地のよさは専門家にも簡単には測れない。
それは、住む人それぞれの感覚に根ざしたものだからだ。
つくることはプロに任せてもいい。
しかし、感じること、読むことは、誰もが手放さなくていい。
詩を書く人と、詩を読む人がいるように、建築にもつくる人と、読む人がいる。
詩をつくれなくても、詩を読むことはできる。
建築も同じだと思う。
建築の「詩」を読む人が増えれば、まちはもっと豊かになるのではないだろうか。
住まいが商品となり、お金が強く介在すると、人の心はつい閉じがちになる。
だからこそ今、これからの住まいやまちについて、素人も含めて考える時期に来ている。
社会を動かすのは、専門家だけではない。
間取りが描けなくてもいい。
「本当の自分の住まい」を、言葉で語れる社会になったらいい。
空間と人との対話を学び、それぞれが自分なりの詩を建築から読み取る。
建築の詩を超えて、まちそのものが、無数の詩を宿す場所になっていく。
その入口に立つのは、案外「ことばの詩」なのかもしれない。



