番外編:世捨て人
生活短観
私は受験戦争時代の申し子である。
ずっと、学力、偏差値、学歴競争の中で育ってきた。
会社に入った後も、出世競争があった。
商社なので多くの人に会った。
自然と相手の実力(この場合、学力とか実務能力とか仕事力とか)を、
会って数分で見抜く力も身に付いた。
商社はなんでも一人完結するスタイルなので、
法務、経理、企画、開発、営業、貿易、品質・生産管理、監査など、
とにかく一連の仕事のながれは経験し、その能力を身に付けた。
成長していると感じた。
これらの能力は、いまだに使っているし、決して無駄ではない。
しかし、これは誰のための成長だったか?と問えば、
もちろん私のためだし、私に蓄積され、出世にも影響するものの
実際は、「会社のため」であった。
出世が止まり、定年が見える年齢になると、
それらは確かに大切で有効なスキルではあるが、
自分にとって最も大切な成長・スキルだったか?といえば、
決してそうではなく、会社を辞めれば、ほぼ使わなくなる能力だった。
そして私は会社を辞めた。
今、私はこのブログにも書いているように、
枝豆・大根栽培、時澤大根復活、生活習慣病研究、文明思想、飲食店構想など、
好きなことをやっている。
もはや、
ここに比較はない、
明確な比較対象も居ない。
比較をやめた瞬間、成長という言葉が要らなくなった
― 人は、成長するのではなく発酵する
現代社会には、
ほとんど無意識に刷り込まれている前提がある。
人は成長しなければならない。
・去年より結果を出す
・他人より優れる
・速く、強く、上に行く
この前提は、疑われることがほとんどない。
「比較 → 成長」という現代ロジック
よく考えてみると、
成長という言葉は、ほぼ必ず比較とセットで使われる。
・あの人より成長した
・同世代より伸びている
・平均を上回っている
つまり、
成長とは、
相対評価の中でのみ成立する言葉だ。
比較が消えたとき、何が起きるか
他人と比べるのをやめた瞬間、
奇妙なことが起きる。
・成長しているかどうかが分からなくなる
・遅れているのか、進んでいるのかも分からない
・評価の物差しが消える
多くの人は、ここで不安になる。
だが、
よく観察すると、別の変化が起きている。
「進んでいる感覚」は、残っている
比較は消えても、
・手応えはある
・積み上がっている感じはある
・判断が洗練されている
時間が、内側で効いている。
これは成長ではない。
少なくとも、従来の意味での成長ではない。
発酵という比喩
ここで使いたい言葉が、
発酵だ。
発酵とは、
・速くならない
・派手に変わらない
・外からは分かりにくい
だが、
・濃くなる
・深くなる
・質が変わる
量の変化ではなく、質の変化が起きる。
成長と発酵の決定的な違い
成長は、
・スピードを測る
・結果を比べる
・評価が前提
一方、発酵は、
・時間を使う
・内側で変わる
・評価を必要としない
発酵には、
「早い・遅い」という概念がない。
なぜ現代人は、発酵を許されないのか
理由は単純だ。
発酵は、即時報酬にならない。
・数字が出ない
・成果が見えない
・褒められない
だから文明は、
発酵を待てない。
代わりに、
・比較
・ランキング
・進捗管理
を与え続ける。
自分軸で時間を使うということ
自分軸で時間を使うとは、
・成果を出すため
・成長を示すため
ではない。
時間そのものを、
自分の内側に沈殿させることだ。
このとき、
時間は消費されない。
評価も速度も、不要になる瞬間
発酵が始まると、
・評価されなくても平気になる
・遅れている不安が消える
・急ぐ理由がなくなる
なぜなら、
すでに変化が起きているからだ。
成長を捨てるという選択
成長を捨てるとは、
・怠けること
・諦めること
ではない。
他人の時間軸から、降りることだ。
そして、
自分の時間に戻ることだ。
次へ
発酵を選ぶと、
社会との距離感が変わる。
評価も、期待も、承認も、
すべて一歩引いて見えるようになる。
次は、
世捨て人という方法論。
文明から逃げず、
期待だけを捨てるという、生き方の設計に入る。
大好きな炭水化物よ、さようなら!



