みんなのおうち活動日記(2024.06.07)
こんにちは!
中西紀説(なかにしのりつぐ)と申します。どうぞ「のんちゃん」と呼んで下さい!
私は山梨県南アルプス市で不登校児の居場所として体験型フリースクール「みんなのおうち」を運営しています。
私自身、中学生の時に不登校を経験しました。その時に負った劣等感・無能感・自己否定感がトラウマとなって40歳まで苦しみ続けました。一時は引きこもりとなり、自殺未遂を図ったこともあります。父親となってからは我が子も不登校となりました。フリースクールを始めてからは沢山の子ども達と関わってきました。
そんな人生を通して得た大切な気付きや想いを綴ります。
フリースクールだからこそ出来る教育とは何か?
今日は、フリースクールだからこそ出来る教育について考えてみたいと思います。まず、始めにお伝えしたいのは教育には「教え」と「学び」の2種類があって、両者はその性質を異にするということです。「教え」とは大人が主導するもの。大人が枠を設け、子どもに知識や教養を与えるものと言えるでしょう。一般に公教育で行われている授業がこれに当たります。一方、「学び」の場合、主体は子どもにあります。大人はあくまでもサポート役として、子どものやる気や意欲、好奇心を引き出す役割に徹するのです。このように、主体は大人と子どものどちらにあるのか。大人の役割は与えるのか、引き出すのか。といった点で、両者は大きく異なっているのです。ちなみに、だからと言って良し悪しや優劣を論じるつもりはありません。どちらにも一長一短あって、両者は車輪の両輪のようにどちらも必要なものだと思っています。
先生一人が何十人という子ども達を相手にする公教育においては、その性質上「教える」教育がなされるのは仕方がないと言えるでしょう。これに対し、子どもの個性に寄り添った対応が可能なフリースクールだからこそ出来る教育が「学び」なのではないかと思っています。実際に、みんなのおうちも学びの場であることを大事にしています。
では、「学び」の場に必要な要素とは何なのでしょうか?このことを論じる前に「自主性」と「主体性」について考えてみたいと思います。皆さんは、「自主性」と「主体性」の違いはどこにあるかご存知ですか。それは、「自主性」とはやるべきことが決められているのに対し、「主体性」にはそれが決められていないことにあります。つまり、決められたことを自ら率先してやるのが自主性で、何をやるのかというところから自ら考えて動くのが主体性なのです。その意味で、あらかじめやることが決められている「教え」の場では、自主性は育めても主体性を育むのは難しいと言えるでしょう。では、ここで改めて「学び」に必要な要素について考えてみます。先述のように、「学び」の主体は子どもにあります。大人は子どものやる気や意欲、好奇心を引き出すサポート役です。また、やるべきことが決められた枠の中では主体性を育むことは出来ません。これらを勘案すると、「学び」に必要な要素、それは自由なのです。言い換えるならば、自由の中に学びがあるのです。主体を子ども達に預け、何をやるかというところから自由に考えられる環境こそが「学び」の場と言えるのでしょう。
ここで、自由の意味について補足しておきます。ここで言う自由とは、子どもを信じること。彼らの可能性や人間性を信じて委ねることです。決して放置することではありませんし、甘やかすことでもない。子どもの言いなりになることでもありません。自由とは信じて委ねることなのです。ただし、これを実践するのは本当に難しい。私達大人には忍耐が求められるから。それは修行とも言えるほどに困難なものです。かく言う私も、現在進行形で苦悩し続けています。しかし、「学び」の場として子ども達の主体性を育みたいのであれば、自由を保障しなければならない。そのためにはいかに彼らを信じられるのかが問われるのです。フリースクールだからこそ出来る教育、そこには大人が子どもを信じて待ち続ける姿勢が求められるのですね。
本日も最後までお読み頂き有難うございました。
もし、お子さんの不登校などでお悩みでしたらご連絡下さい。
私でよろしければ真摯に対応させて頂きます。