供養Vlogとは?~InstagramやTikTokで広がる新しい供養のかたち~
従来のお墓に代わる散骨や樹木葬
現代のライフスタイルの変化や核家族化、そして継承者不在といった課題から、従来のお墓に遺骨を納めるという考え方にとらわれない供養方法を選ぶ人が増えています。
中でも、自然に還ることを目的とした「散骨」や「樹木葬」、自宅など身近な場所で故人を偲ぶ「手元供養」が注目されており、今では従来の墓に代わる選択肢として広まりつつあります。
こうした自由な供養スタイルを求める考え方は、実は現代に始まったものではありません。歴史に名を残す人物の中にも、伝統に縛られず、自身の価値観や家族の思いに寄り添った供養のかたちを選んだ人がいます。
彼らは、従来の常識にとらわれることなく、自由で無理のないかたちで故人を見送ることの大切さを示してくれています。
福沢諭吉が選んだお墓の場所
福沢諭吉(1835~1901)は、日本の近代化に大きな影響を与えた思想家・教育者・著作家であり、「旧一万円札の肖像」としても広く知られています。代表作『学問のすゝめ』や『文明論之概略』を通じて多くの人々に影響を与えました。
1901年2月3日に脳溢血で亡くなった福沢諭吉は、東京・元麻布の「麻布山善福寺」に埋葬されています。現在のお墓が善福寺に建てられたのは1978年のことですが、それ以前は「常光寺」という別の寺に埋葬されていました。
福沢家は浄土真宗の信徒であり、善福寺は代々の菩提寺でした。福沢諭吉の葬儀もこの善福寺で行われましたが、実は彼自身が生前に別の寺「正福寺」の墓所を購入していたのです。
正福寺は福沢諭吉の自宅近くにあり、見晴らしも良かったため、本人が気に入っていた場所だったと言われています。従来の慣習では、葬儀と埋葬は同じ寺で行うのが一般的ですが、福沢諭吉は葬儀は善福寺で、埋葬は正福寺でという形を選んでおり、当時としては珍しいものでした。
これは、彼が宗教や形式にとらわれない自由な考えを持っていたことの表れだといえるでしょう。
その後、正福寺の跡地を受け継いだ常光寺が福沢家のお墓を管理していましたが、本堂の建て替えに伴い、福沢家は諭吉の遺骨を菩提寺である善福寺に移す決断をしました。
アインシュタインが選んだ散骨
アルベルト・アインシュタインは、相対性理論の提唱やノーベル物理学賞の受賞で知られる世界的な物理学者です。
彼の死後、遺灰は生前の希望により自然へ還されました。
第一次世界大戦をきっかけに政治活動にも参加したアインシュタインは、戦争に反対し、平和主義者としても知られるようになります。ユダヤ系のドイツ人だった彼はナチス政権下のドイツを離れ、アメリカに亡命しました。
1955年、アメリカ・プリンストン病院で息を引き取ったアインシュタインは、従来の墓に葬られることを望まず、自然への回帰を選びました。
葬儀は静かに執り行われ、遺灰はデラウェア川へ散骨されました。
彼の自由な発想や枠にとらわれない生き方は、その供養のかたちにも表れており、散骨という選択は当時としては先進的でありながら、今では多くの人に共感される供養方法となっています。
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故人を偲ぶ自由な供養のかたち
歴史上の人物たちが自由な供養を選んだ事実は、現代に生きる私たちにとっても、供養のあり方を見直すきっかけとなるかもしれません。
従来の葬儀やお墓は、宗教・地域・伝統に強く影響を受けたものでしたが、供養は本来、故人を想い、つながりを感じる心の行為です。
その方法は一つではなく、故人の遺志や家族の気持ちを大切にした「自由な供養」も尊重されるべきです。
散骨や樹木葬、手元供養といった新たな選択肢が広がる今、形式よりも気持ちを重視する供養が、これからの時代における自然な在り方となっていくでしょう。
供養とは、感謝の気持ちや故人への想いを形にすることです。
どの方法を選ぶかは人それぞれですが、故人や家族の心に寄り添ったものであることが、もっとも大切なことなのです。
今後も供養の方法は多様化し続けていくでしょう。
その中で、自分たちにとって最も自然で納得のいく方法を見つけていくことこそが、現代における新しい供養のかたちといえるのではないでしょうか。



