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大阪・一心寺を訪ねて:お骨佛と納骨の寺、その魅力と教え
一心寺とは?遺骨で造られる「お骨佛」が有名な寺院
先日、大阪を訪れた際に「一心寺(いっしんじ)」というお寺に立ち寄りました。
この寺は、10年ごとに遺骨で造られる阿弥陀如来像「お骨佛(おこつぶつ)」を安置していることで広く知られています。また、関西では「納骨といえば一心寺」と言われるほど、納骨の場としても多くの信仰を集めています。
あいにくの雨模様でしたが、境内には多くの方が参拝しており、お骨佛への納骨申込みを行う姿も見られました。
法然と一心寺:浄土宗の教えを伝える場所
「南無阿弥陀仏」の教えを広めた法然
一心寺は、1185年(文治元年)に建立され、浄土宗の開祖・法然が修行した場所としてその歴史が始まります。
法然は、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した僧侶で、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで誰でも救われるという「専修念仏」を説きました。
厳しい修行や寄進ができる人だけが救われる当時の仏教に疑問を持ち、法然は誰もが仏の救いにあずかれる教えを打ち立てたのです。
「南無」とは阿弥陀仏への絶対的な信頼を意味し、自分の力(自力)ではなく、仏の力(他力)にすべてを委ねるという考え方です。
この思想は庶民の心に深く響き、浄土宗の広がりに繋がりました。2011年には、法然の800回忌法要も盛大に行われています。
一心寺の歴史と信仰:納骨・お骨佛の由来
一心寺がある大阪・天王寺周辺は、平安時代後期以降、西方浄土の入口として信仰を集めてきた地です。
法然はこの地で、後白河法皇と共に、沈む夕陽に向かって極楽往生を願う「日想観(にっそうかん)」を行ったとも伝えられています。
一心寺はもともと法然の本名にちなんで「源空庵(げんくうあん)」と呼ばれていましたが、その後、僧・本誉存牟(ほんよぞんぼう)が千日間念仏を唱えたことから「一心寺」という名になったそうです。
江戸末期には、施餓鬼法要を日々執り行う「お施餓鬼の寺」としても有名になりました。
遺骨で造られる阿弥陀仏像「お骨佛」
一心寺には、多くの無縁仏や餓鬼道に堕ちた霊魂を供養するために納骨が行われてきました。その結果、納骨された遺骨は次第に蓄積され、明治20年には約5万柱の遺骨を使って、初めての「お骨佛」が完成しました。
- お骨佛は10年ごとに造立
- 第二次世界大戦で6体が焼失
- 現在は納骨堂に4体、お骨佛堂に4体が安置
- お線香の煙で時間とともに黒くなる
その姿は一体ごとに異なり、故人それぞれの想いが込められているように感じられます。
境内にある「酒封じの神」本田忠朝の墓
一心寺には、徳川四天王・本多忠勝の次男である本田忠朝の墓もあります。彼は「酒封じの神」として知られ、禁酒を願う人々の信仰を集めています。
「参拝した者を酒嫌いにさせる」と語った忠朝の遺志は、現代でも多くの人の心に残っています。
供養の選択肢:散骨とお骨佛、それぞれの意義
近年、供養の方法は多様化し、「散骨」「樹木葬」など自然葬を選ぶ人も増えています。一方で、一心寺の「お骨佛」や「合祀」のように、他の遺骨と共に供養される形も根強い支持があります。
散骨は自由で自然に還る形の供養、お骨佛は仏と一体になることで永遠に祈られる供養──対照的なようで、どちらも尊い想いが込められています。
お骨佛の供養:結縁と祈りの連鎖
一心寺では「結縁(けちえん)」という考え方が大切にされています。これは仏法において縁を結ぶという意味で、納骨された人々が四海兄弟となって永遠に供養されるとされます。
散骨の供養:自然に溶け込む想い
散骨には墓標がありませんが、故人が眠る海や森に想いを馳せることで、心の中で手を合わせることができます。現地を訪れることが供養になるだけでなく、旅そのものが故人との時間となることもあります。
かたちは違えど、供養の本質は「想うこと」
お骨佛にも、散骨にも、それぞれの良さと意味があります。
どんな供養のかたちでも、故人を想い、安らぎを願う心が根本にあること──それこそが本当の供養なのではないでしょうか。



