芸術家たちのお墓~葬儀や埋葬について~
「死」を見つめる日々の中で
生命と死、自分自身への問い
散骨に関わる仕事をするようになってから、以前よりも深く「生きること」や「死ぬこと」、そして「自分自身」について考えるようになりました。
生きるって、なんだろう。
死ぬって、どういうこと?
わたしは、ほんとうにここに“生まれている”のかな?
もし生まれていないのなら、死ぬこともないのでは…?
そんな風に、思考が止まらなくなることもあります。
そもそも、「死」という現象は本当に存在するのでしょうか?
日々のなかで、そんな素朴な疑問が浮かんでは消えていきます。
悲しみは自然な感情
ご遺族からいただくご相談の中には、深い悲しみにより不眠や食欲不振、疲労感などの体調不良を訴える方もいらっしゃいます。
人は、自分にとって大切な存在を失ったとき、これまで経験したことのない感情に襲われます。
- 深い喪失感
- 焦りや罪悪感
- 故人への執着
またこれは人間に限ったことではありません。
犬や馬、チンパンジー、ゴリラなどの動物も、仲間を失うと大きな鳴き声を上げたり、食欲が落ちたりすることが報告されています。
中でも象は、仲間の死に際して“弔いのような行動”をとることが知られています。
一方で、故人のことを温かく微笑みながら語ってくださるご遺族もいらっしゃいます。
その笑顔の奥に、静かに涙が隠れているのかもしれません。
悲しみとは、自分の心を癒し、立ち直るために必要な感情。
癒える時間は人それぞれですが、自分の感情を正しく受け入れることが大切です。
「今、私は悲しいんだ」と気づくことができたとき、
それは“自分”という存在を理解する一歩になるのではないでしょうか。
「死」を恐れる気持ちと向き合う
「死んだらどうなるのか」「死は恐ろしいものだ」
そんな思いを抱いたことがある人は多いはずです。私も何度も考えました。
そんな中で心に残った言葉があります。
ギリシャの哲学者・プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』からの一節です。
「死とは、もしかすると人間にとって最上の幸福かもしれない。
だが、それを知る者はいない。
だから、善か悪か分からない“死”を恐れるのは、知ったふりをすることだ。」
これは、ソクラテスが死刑を宣告された後、裁判官たちに語った言葉です。
彼は、「神に背くことや不正は恐れるが、死は恐れない」と言いました。
確かに、人は必ず死にます。
けれど、死の先に“祝福”があるのかもしれないと思うと、
ほんの少し、心が軽くなる気がするのです。
自然に還るということ
肉体の死は、自然の摂理のひとつです。
自然から生まれた存在である身体は、やがて自然へと還っていきます。
ここで言う「自然」とは、「おのずと」――つまり、あるがままに、という意味です。
自然として生まれ、自然として還る――
それが、生命の流れなのかもしれません。
散骨というかたちの供養
散骨は、そんな自然への回帰を象徴するような供養のかたちです。
そこには、別れの寂しさと共に、魂の解放や、新たな旅立ちへの祝福も込められているように思います。
とても静かで、神秘的なひととき。
それは、自然の営みとつながる、心にやさしい供養のあり方です。



