吉原祇園祭ー1つの意思
富士市富士宮市にて在宅医療に携わっている薬剤師の栗原です。
昨日は吉原祇園祭が開かれました。日曜日は雨が降りそうだったのでいくつもりはなかったのですが、息子と友達が「行きたい」というので連れて行ってあげることにしました。
去年の祭りの様子も頭の中に残っててその残像があるので、自分は車で待っていようかと思いましたが、よくよく考えると小学生の子供らもいるので「自分が行かないとまずいな」と思い返して一緒に周ることにしました。
1)子供時代という特別さ
自分の子供の頃の祭りはいまだに自分の中に残ってます。その時は、一見して親の仕事の都合でその祭りの場を離れたと思うのですが、それでも強烈に神輿に乗る同級生たちの姿が印象に残っております。
そういうことを勘案すると、子供たちにとって一年に一度の、もしかしたら同級生と最後に過ごすことになるかもしれない吉原祇園祭ということで、連れて行ってあげてよかったなと思いました。
2)呼吸するように情報に接する
時間の感覚は、18歳までに人生の80%を占めるとも言われてます。それだけ濃密で新鮮で、頭に多くの情報が流れ込んでくる時代なのでしょう。成長するのも頷けます。
この情報化の時代の1日に接する情報は、江戸時代の1年分とも言われてます。私ら大人だってそれだけの量の情報に日々接しているので、毎日、頭が重くなったり痛くなったりするのも当然でしょう。でもそれは私たち大人もまた、ある意味での少年時代に生きているとも言えるのかもしれません。
大好きなアーティストのライブに行くと、自分の頭の中を総浚いするかのような情報に接して日常を忘れます。年齢なんて関係ない。そう思える瞬間がたくさんあります。・・となれば私たちだってもっともっと成長していけるということではないでしょうか?
3)子供時代というプレゼント
それにしても最近はお祭りの屋台も、結構出費が嵩みますね(汗汗。最低300円、基本500円・・。昔のようにちょこちょこため込んだ小遣いを握りしめて向かうというよりも、親御さんが少し痛めの出費をして「体験」と「思い出」をプレゼントするイベントみたいな感じがします。
駐車場は近場のコインパーキングが空いていてすんなり停められました。私の子供時代と違って、今は子供が少ない時代ですから、子供の集まるような場所に行っても混み具合は「こんなもんかなー」と思うことが結構あります。
それだけ、子供一人ひとりに目が向けれる時代となったとも言えます。
4)子供の世界はどこにある?
親御さんの目の届かない子供だけの目の届く世界も狭くなりつつあるのかな?一方でそれは、社会の仕組みとか世の中とか、親の視点で情報を提供する機会が増えているとも言えます。
この屋台の物の原価は幾ら位だよ、とか、これを買うのはちょっとないなーとか。・・これは少し子供の体験を値引きさせている羽目になってますでしょうか。
そうか・・。先ほど触れた子供らの世界については、マインドクラフトとか架空の世界で友達と毎日会ったりしているようなので、子供の世界の足場が変わったということなのでしょう。
私らの子供時代には、大人が干渉してくる機会はそうなかったように思います。今は、親の視線が介入していないと親の責任が強く問われる時代です。そう考えると、予定調和的な仮想空間で作られたマインドクラフトの世界は、ある意味、監視のかなり行き届いた安全空間とも言えるのかもしれません。
5)遊びと仕事の関係
また、子供達にとって楽しいのは、祭りの場所で友人たちとばったり出会う事のようです。たまたま、というのが良いんでしょう。祝祭空間の中で、普段顔を合わせている友人に、たまたま出会う、ある意味の作られた偶然性・・。でもその偶然性って、「遊び」というものの本質なのかもしれませんね。
私らの世界では可能な限りイレギュラーなことが起こらないように仕組み化を繰り返していくのが仕事とも言えると思います。患者様の来局を予想して、在庫を調整して、さまざまな日程調整を繰り返していく。そういう点で、仕事って、世界から遊びの領域を取り除いていくような働きなのかもしれません。
患者様の状態が劇的に改善するようなイレギュラーも起これば、それがどうして起こったのかも分析して、次の患者様に生かしていくこと。楽しくはないかもしれませんが、少なくとも仕事の領域にも他者貢献という感情の領域は、なお残っていそうです。そんなものを求めていきたいです。