Calling-休日の薬剤師
古代中東の戒律である十戒が民に与えられた時のことでした。エジプト王の子供として育てられながら民に裏切られ、数十年間羊飼いとして訓練を受け、その後イスラエルの民を導いて「出エジプト」を果たしたのがモーセでした。このモーセが砂漠地帯を何万人も連れて新天地を目指す中、神と出会ったのが、シナイ山でした。
神がそのシナイ山に降った時、山は煙でその全体を覆われました。旧約聖書中、ほんの一箇所だけ記録されている出来事です。その煙のことを「全山煙」と言います。
なぜ山全体が煙に巻かれたのか?その理由は定かではありませんが、神様が、ご自身の神々しさを覆い、それを見た人間が死なないようにされたからだという説があります。
(もといちば内科前交差路にて 令5/6/15)
今日の富士山も同様に、全山が雲(煙)に覆われていました。この富士市に住んで3年経ちますが、私の記憶する中では2回目の出来事です。もちろんもっと起こっていて、単に私が見過ごしただけかもしれませんが、この富士山全山煙を見るたびに、私は人間を超えた存在に対する畏怖の思いを抱くのです。
雲は雨をもたらすものです。この地区で富士山に降り注いだ雨は、400年の時を越え、溶岩古層で削られ、珪素、バナジウムはじめ豊かなミネラル分を含んだ自然の恵みとして静岡、山梨一体を潤わせてくれています。人間の技術がどんなに進歩したとしても、そんな人類の歴史は地上の薄っぺらい表面で繰り広げられ、天から降る恵みの前に、共に跪くべき存在であるように思われます。
ほんのひと時の雨天であれば、人間はそれをコントロールすることに努めます。快・不快の判断軸は、そう考えればとても皮層的なもののように感じられます。自分たちでどうにかなると思っているから、その不自由さを不幸に感じるのであって、もっと巨大な天災を前にすれば、人は黙り込まざるを得ない存在なのでしょう。
人はいつか、死にます。それが1年後か10年後か、はたまた30年後かの違いがあるに過ぎません。死というものをどう迎え入れ、どう評価するのか・・。私たちの歴史はそれを基準に、人生観や歴史観を築き上げてきました。
なんでも上っ面の世界であったとしても、それを信じて本人がそれだけを見つめる筋道も、それとしていいのではないか?そう考える立場もあるでしょう。
フラットアース理論というものもあります。地球は平面だと「信じている」人たちだそうで、彼らは日々、地球が平面であることを証明しようとしているのだそうです。これは、よく考えれば、そう馬鹿に出来そうもない立場です。普段私たちは、そんな上っ面の世界で一喜一憂しているからです。
まずは自分の日々の生活を振り返る者でありたい。私はそう願う1人です。