場を乱す方の参列は控えるべきか?
【質問の内容】
先日故人の意思で家族葬(直葬・通夜なし)を行ったのですが、田舎出身の親を持つ夫からは
「一般的な葬儀の意味は故人とお別れする区切りのようなもの。喪主は家族葬にすることで故人とちゃんとお別れできているのだろうか、中途半端にならないだろうか?」
のようなことを私だけに言っていました。
夫は参列者です。
実際初めての家族葬は私たち家族に取ってはとても良い時間であり、故人としっかり向き合えた感があったのに…。
先ほどの夫の意見を聞いて、近年は昔ながらの儀式や風習が段々と簡略化していく流れと大事にしていきたいという流れの過度期であり、当然ではありますが故人と喪主・参列者の考え方は必ずしも一致はしないのだな、と思いました。まだまだマイノリティなのかもしれない家族葬にはそれなりに説明めいたものが必要であり、なんだかなぁと思うのです。
そうなると一般的な葬儀が多かった時代よりも多様な考えや価値観が存在する現代の方がなんだか生きずらく、正解のない不自由さのようなものを感じます。
葬儀社の方は多様化する葬儀についてどう思いますか?マイノリティな考えだった場合、それを最後まで押し通す勇気はありますか?
【回答いたします】
葬儀の形式には、厳密な定義が存在しません。例えば、葬儀業界においては、家族葬とは通夜葬儀を伴う、親しい方、ご家族様のみでのお別れをおこなうことで、直葬は家族葬とは言わないのですが、「家族だけでお別れしているのだから、家族葬だ。」とお考えの方にそんなことを伝える意味がありません。
ご質問者様は良いお別れだったと満足されておいでなのに、旦那様は少し懸念をお示しで、モヤモヤされますよね 形式について説明が必要と言うよりも、「故人も含めて家族が納得するお別れ」を皆様のお話を伺い、提案できるにかかっていると考えております。
今回のケースで言えば、直葬をベースに、宗教者の儀礼を挟むことで区切りがついたかも知れません。宗教的儀礼が古来から含まれていたのは、2つの側面があると考えております。
①ご家族が個人個人で納得するお別れの区切りが不可能であること(故人は天国や浄土に旅立ったと思うことはできるが、宗教作法がないと確証がもてない)
②故人に対する感謝と報恩の祈りを捧げる行為
葬儀において、宗教儀礼が行われてきたのは、それらの機能を代替するものがなかったからだと考えています。
現代では、宗教儀礼に懐疑的というか、意味を見出せずお経を貰わずにお別れに臨むむことが多くなってきました。
ですが、昨今のお別れに、宗教に変わる、区切りの付け方は見つかっていないように思います。旦那様はそこに違和感を感じておいでなのかも知れません。
葬儀の多様化についてですが、個人的には多様化してきているとは思っていません。質問者様のおっしゃる通り、簡略化の傾向が進んでいるだけのような気がします。最終的には、皆様のご意向を汲み取り、ご希望の形式で葬儀を承りますが、「質素がいい」のか「質素でいい」を思い違いしていらっしゃる方に出会うと我々も心が折れます。
「母はキリスト教でのお別れが似合うと思う。」という一存でキリスト教風のお別れのお手伝いをしたり、
「僕はお経が得意だから、自分のお経で送ってあげたい。」
「宗派的に葬儀をやったこと無いが、信者のために葬儀をしてあげたい。」
といった喪主様のお手伝いをしてまいりました。
皆様のお話を聞いて、そこに理を感じる時は、「不謹慎」「マイノリティー」の枠を飛び越えた葬儀を担当しております。



