目から見た笑撃
山崎二休守三を知ってますか?
10月21日(土)午前10時から豊見城中央公民館で講演することになりました。
正しい話し方とかではなく、歴史の話です。
山崎二休とは何ものか
慶長の役というと、豊臣秀吉が大陸を制することを夢見て行った二度目の朝鮮半島出兵のことという場合が多いですが、琉球でいう「慶長の役」は
薩摩島津氏による琉球侵攻のことです。
薩摩三千の兵の前に和睦を図る琉球側に対し、薩摩軍は島伝いに南下し、摂政・具志頭王子と三司官が人質になる事で決着しました。
全く抵抗がなかったわけではありません。首里を目前にした薩摩軍に越来親方らが立ちはだかりますが、鉄炮の前に蹴散らされ、薩摩兵は首里城を包囲します。
そこに立ちはだかったのが越前出身の“法師武者”山崎守三でした。圧倒的薩摩軍にひとり矢を打掛け抵抗します。
和議は整っている相手に降れと説得され下城した守三は、薩摩に捕らわれ、切られる寸前、尚寧王が金銀と引き換えにその命を守りました。
そもそも、どうして越前の人がそこまでして抵抗したのかというところが私には不思議でした。
琉球医術の祖
山崎は1589年ごろ明から優れた医術が伝わっているに違いないと来琉し、王府から葉姓を賜ったとされている。
ただ、本当にその時期に琉球に来たのか、来て一度帰ったのかは分かりません。
越前やその隣国の若狭とは(那覇には若狭町の地名もある)かなり古い時期から交流があったようです。
それは沖縄では取れない漆器の原料ウルシであり、逆に若狭越前では喉から手が出るほど欲しいヤコウガイだったでしょう。
琉球の向こうにいる明との交易を意識していたとも言えます。現に戦国大名朝倉氏最後の当主・朝倉義景は、琉球との交易を目指し島津氏に手紙を送っています。
戦国当時、医術と言えば何といっても外科でした。そりゃあそうです。戦いに明け暮れていたのですから。
山崎二休は外科でなく、内科の技術を求めたと言われています。外科の素養はあったのでしょう。
朝倉氏の拠点・越前の一乗谷には医者がいて、独自の薬もあったようです。まだ本当の医者がいなかった琉球では医の心得がある山崎の存在は大きかったでしょう。彼は国王に近いところで働くようになっていったようです。
山崎二休の出自は?
山崎二休は“法師武者”だったといいます。ただの医者なら、首里城のやぐらから矢を射続けるなど出来なかったでしょう。
実は朝倉氏の重臣に山崎氏がいます。何年か前に明智光秀を主人公にしたドラマでも登場、私が一乗谷を訪れたとき、案内をする人が
「山崎吉家役だった榎木孝明さんが屋敷のあとを見に来てましたよ」
と言っていました。
山崎吉家はじめ山崎一族は、朝倉氏が決定的敗戦を喫した刀祢坂の合戦で大半が戦死してしまいますが、生き残った何人かは、勇猛さを買われて
前田氏に仕官を許されます。そんな中に二休がいたのではないか…。そんな思いを強くしました。
京に近く豪族との争いだけでなく、一向一揆との戦いにも明け暮れた一乗谷朝倉氏。
そこに仕えていたであろう山崎二休守三。たどり着いた穏やかな南国・琉球。そこにやってきた薩摩軍。
420年前の“法師武者”に思いを馳せたいと思います。
お時間があれば、ぜひお越しください。