美味しいモノ?
男3人兄弟の長男です。
生まれ育った所、荻町の木下は熊本の県境まで歩いて15分くらいの大分の端っこでした。
木造の荻小学校が馬場地区に有ったので家から歩いて子供の足で1時間10分はかかっていたかな。
今思えば小学校の6年間を4キロ以上の道のりを徒歩で通学していた事は
基礎体力をつけてくれる事につながったと思います。
私も弟二人も大病なくそれなりに残業の多い職場を耐え抜いてこれてます。
父は出稼ぎ状態で大分市内の新日鉄構内の仕事をする運輸会社で3交代仕事をしており横尾にあった
5階建ての会社の社宅暮らし。母もそこに住むこととなり、兄弟3人は祖父母に育てられたのです。
朝、その頃NHKの「明るい農村」と言う番組が毎朝ありまして飯の時間と重なります。
祖母にたたき起こされて、明るい農村を見ながら朝飯を食べます。
「出前一丁」の袋麵を2袋で兄弟3人で分けるのです。それに漬物と白米(米は田んぼで自前)
あーらヨツ!ゴマの調味油付きのやつです。
多分これを一番多く食べたと思う。
山奥で当然お店も無い所なのでこのインスタントラーメンも農協が運営する「購買車」という移動販売でした。
週に一回だったと記憶してます。塩サバ塩鮭やクジラの冷凍赤身を4トントラックの荷台に詰め込んで
町内の地区を回ってくれるのです。
思えばこのシステムは大変有難かったと思います。
自動車など高嶺の花の時代ですから、荻町でも食料品を買いに行くには歩いて1時間以上が必要でした。
食べ盛りの小学生が3人を育んだのは、「購買車」だったと言っても言い過ぎでは無いかもしれない。
30袋入りの箱を購入してました。
チキンラーメンの登場は画期的です。検索サイトによると発端はこのラーメンだとあります。
NHKの朝ドラで「安藤百福」さんを主人公にされていました。朝ドラを毎日見るようになったのは
このドラマだったかもしれません。きっかけを作って頂きました。
恐らくチキンラーメンは少し高価だったと思います。
朝飯でのチキンラーメンは滅多にありませんでした。
あの頃は、メーカーから色々なインスタントラーメンの開発を競って新製品が続々登場してました。
明星ラーメン
マルタイの棒ラーメン
アベックラーメン
等々、もう記憶の薄れた銘柄が沢山あります。
アベックラーメンは朝ご飯に何度も登場した記憶が残っています。
中でも「さっぽろ一番」シリーズ
味噌ラーメン 1968年(昭和43年)
塩ラーメン 1971年(昭和46年)
半世紀を経過して今尚、好まれているのはそれなりの理由が有ります。
美味しい!
それにつきます。
このシリーズだけでも私は数千食は食べている筈。
本当にお世話になっております。
豚骨系
うまかっちゃん
マルタイの屋台ラーメン(これはなかなか安売りになりませんが抜群の旨さ)
焼きそば
日清のソース焼きそば
ホンコン焼きそば(独自に路線を守り通していて好物です)
カップ麺も存在しますが
これは、一つのジャンルです。
又の機会に致しましょう



