とにかく、できることを頑張るべし(韓国編)
なるべく子供でいる方が良い?
小さいころ、父親が良く言っていました。『どうせ大人になるのだから、できる限り長く子供でいる方が良いんだよ。』
良くあることかもしれませんが、何度も何度も聞いたからか、それが染みついてしまいました。そしてそれが後年になって影響が大きく出て来ることにもなりました。
大人とは?
先月、地元でも『成人の日』がありました。一応『大人』を迎える方々のための日です。ただ、本当の意味での大人とはいつからなのでしょうか?どうやら世間では『社会人』と呼ばれる状態になった時点で『大人になった』と考えられているようです。
ところが、私の場合は20代は学生でしたので一応『30代になってようやく大人になった?』ということであり、未だに大人としての自覚が足りない所以かもしれません。だからか、20代の頃は至る所で『お前は社会人ではない』などと言われておりました。世の中には『社会人』という言葉にかなりの重みがあるようですが、どうも私にはピンと来ません。また、20代の頃に学習したことは今も非常に役立っているので、社会人でなくても、有意義な時間を過ごせたと思っておりますが…
そんな私にも子供がいるようになり、家内のことを『カアカア』と呼ぶようになりました。そんなある日、何と『カアカアの子供で良かった!』などと寝言で言っていたそうです。いつまでも、どこまでも子供でいたいようです。
ずっと偏屈者であった
それはそうと、父親はかなりの偏屈者でした。
社交性は全くなく、当然友達もおらず、物事を屈折して見てばかりで、何事にも消極的で『石橋を叩いて渡らない』とか良く言っていました。
単に戦前生まれの堅物だからと思っておりましたが、その理由が最晩年になってわかりました。
死ぬ覚悟であった?
父親は終戦を旧制中学2年で迎えました。
数か月後には工場で勤労奉仕が始まる予定でした。
当時工場へ行くことは死ぬことを意味していました。
既にアメリカの飛行機が頻繁に飛びまくっていたようです。
毎朝、悠々と飛ぶ偵察機が現れ、その情報を元に、艦載機(小型機)がやって来て爆弾を落とすことが日常化していたようです。小型機とはいえ、1トン爆弾も落としたようで、現場には大きな大きな穴ができたそうです。
工場へ行くということは、わざわざ爆弾が落ちる所へ行くようなもので、10代前半で死ぬ覚悟は十分できていたようです。
手のひらを返す
ところが、とんでもないことになりました。
終戦を境として大人たちは手のひらを返したように、態度が一変したそうです。
日本の軍国主義は悪魔で、悪魔だったはずのアメリカが突然正義の神様だと…
その変わり目に全く付いて行くことができず、すっかり取り残されたそうです。
この手の話、知識としては知っていましたが、父親がその一人であったことは知りませんでした。そして、父親自ら最晩年になってから、その話をしました。
穏やかな日々
そんな父親の最後の11年間は一人暮らしで、ヘルパーさんの世話になったり、デイサービスを受けるなど、介護の方々のお世話になっておりました。
ところがケアマネージャーさんから、デイサービスに行って、レクレーションには皆勤、ゲームの新しいルールを提案するなど、かなり積極的だと聞きました。更に本人からも、『皆で昼ご飯を食べることが楽しみだ!』と言っていました。いずれも我が耳を疑うことばかりでした。社交性ゼロだったはずなのに…
これが本来の姿だったのか?
本人に尋ねてみました。
『何か心配事はあるか?』⇒『何にもない』
『何か嫌なことはあるか?』⇒『何にもない』
とニコニコ答えるだけでした。
ふと思いました。
『ひょっとすると、父親は本来そういう人だったのではないか?』
戦中、戦後と、ズルい大人たちのために、何十年間も本来の姿ではなくなってしまったのではないか?
『大人なんかに、なりたくない!』




