2025年の崖を乗り越える!広島発、投資0円からのDX成功事例20選
「もう、農業はやめようと思うんです」
広島市の中山間地域で40年以上小松菜を栽培してきた中池さん。その言葉には、長年の疲れと諦めが滲んでいました。
「これだけ頑張って、それでも先が見えない。息子にも、こんな苦労は継がせたくないんです」
毎日早朝から日没まで畑に立ち、品質の良い小松菜づくりに情熱を注いできた農家の言葉は、現代の農業が直面している課題を如実に物語っていました。
転機は息子さんの一言から
しかし、その2年後。中池さんの表情は、まるで別人のように輝いています。
「うちの小松菜、市場でトップクラスの評価をもらえるようになったんですよ」
この2年間で何が変わったのか。そして、なぜ変われたのか。
その答えは、一枚の手書きのノートから始まりました。
転機は息子さんの一言から
ある日、東京の IT 企業に勤めていた息子さんが週末に帰省した時のことでした。
「お父さん、このノートなに?」
息子さんが手に取ったのは、中池さんが毎日欠かさずつけていた作業日誌でした。播種の日付、防除の記録、収穫量、その日の天候まで、びっしりと書き込まれています。
「ああ、40年間つけてきた日課よ。これがないと、次にいつ何をすればいいか分からんからね」
その何気ない会話が、大きな転機となりました。
40年分の経験がデータに変わる日
「これ、全部データ化できるよ」
息子さんは父のノートを真剣な表情で見つめていました。
「過去3年分だけでも入力してみよう。お父さんの経験を、みんなが使えるカタチにできるはず」
休暇を延長した息子は、父と一緒に作業日誌をパソコンに入力し始めました。播種日、防除のタイミング、収穫量、天候。一行一行を丁寧にデータ化していきます。
「でもな、農業は生き物相手。そう簡単にデータだけではいかんよ」
そんな父の言葉に、息子は静かにうなずきました。
「だからこそ、お父さんの40年の経験が大切なんです。このデータの中には、お父さんが長年かけて培ってきた『秘訣』が詰まっているはずだから」
手書きのノートが"システム"に
データ入力から2ヶ月。息子は独自の作業日程算出ソフトを開発しました。播種日を入力するだけで、その後の防除や収穫の適切な日程を自動で算出するシステムです。
「これなら、新しい人でも、お父さんと同じような精度で作業計画が立てられます」
最初は半信半疑だった中池さんでしたが、実際に使ってみると、その効果に目を見張りました。これまで経験と勘で行っていた作業が、より正確に、効率的に進められるようになったのです。
さらに、出荷用の段ボール箱も工夫を重ねました。野菜を立てた状態で梱包することで、品質と見栄えを両立させる新しい方法を確立したのです。
広がる希望の輪
中池さんの取り組みは、静かに地域に広がっていきました。
「本当に、これで上手くいくんかな」
最初は懐疑的だった近隣の農家も、中池さんの小松菜が市場で高い評価を受け続けるのを目の当たりにし、少しずつ興味を示し始めました。
特に若手農家の反応は早かったのです。
「これなら、経験が浅くても、ベテランの技術を学べる」
「データがあれば、改善点も見えやすい」
呉市でも同様の動きが始まっています。トマト栽培での効率的な一貫体系の構築が進められ、「ひろしま型スマート農業プロジェクト」として、県全体の取り組みへと発展しつつあります。
デジタル化が教えてくれた大切なこと
この事例から、私たちは重要なことを学べます。
スマート農業というと、大規模な投資や最新技術の導入をイメージしがちです。しかし、中池さんの事例は、そんな固定観念を覆してくれました。
手書きのノートから始まった小さな一歩。そこには、40年という歳月をかけて積み重ねられた農家の知恵が詰まっていました。デジタル化の真の価値は、その知恵を「見える化」し、次世代に伝えられるカタチに変換できることにあったのです。
さらに注目したいのは、親子でのコミュニケーションがもたらした化学反応です。長年の経験を持つ父と、ITの知識を持つ息子。異なる視点を持つ二人が互いを理解し、尊重し合ったからこそ、新しい可能性が生まれました。
これは、広島の中山間地域から始まった小さな革新です。しかし、この取り組みが示唆するものは決して小さくありません。日本の農業が直面している課題に対する、一つの希望の光を示してくれているように思えます。
技術は、人の想いを実現するための道具に過ぎません。大切なのは、その技術をどのように活用し、誰のために、何を実現したいのか。その問いに対する答えを、中池さん親子は実践で示してくれました。
そして今、その小松菜畑には、後継者となる若者の姿も見え始めているのです。
中池さんの農園を訪れると、今では若い研修生の姿も見かけるようになりました。
「今年から2名の若手が研修に来てくれています。デジタルと農業の両方が学べるって聞いて、興味を持ってくれたみたいです」
かつて「息子に継がせたくない」と語っていた中池さんの表情には、確かな希望が宿っています。
「ここ広島の中山間地域から、何か新しいことが始められる。それが分かっただけでも、このシステムを作った価値があったと思います」
息子さんもときおり休暇を取って帰省し、システムの改良を続けています。今では、気象データとの連携も視野に入れた新しい機能の追加も検討中だとか。
未来への種まき
広島県では、このような取り組みをモデルケースとして、「ひろしま型スマート農業プロジェクト」を本格的に始動させています。トマトやレモンなど、地域の主要作物での展開も始まっています。
しかし、最も印象的だったのは、中池さんのこんな言葉でした。
「結局ね、農業はずっと同じことの繰り返しなんです。毎日コツコツと。でも、その『コツコツ』の中身が、少しずつ良くなっていく。それが分かるようになった。これが一番の変化かもしれません」
手書きのノートは、今でも大切に書き続けられています。ただし、その横には、タブレットの画面も光っています。伝統と革新が、自然な形で調和している―。それが、広島の中山間地域から始まった、新しい農業の姿なのかもしれません。
スマート農業は、決して人の手を置き換えるものではありません。それは、長年培われてきた経験と知恵を、より確かなカタチで未来に伝えていくための道具なのです。
中池さんの農園に広がる小松菜畑。その鮮やかな緑の上を、早朝の風が優しく撫でていきます。その風に乗って、新しい農業のあり方が、少しずつ、でも着実に、広島の地から全国へと広がっていくのではないでしょうか。