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袴田事件を裁いた悲運の人

中村信介

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1、 昭和41年に静岡県旧清水市のみそ製造会社専務一家4人が殺害された事件で、当時プロボクサーだった袴田巌氏が逮捕、起訴され、死刑判決によって死刑囚(平成26 年3月再審無罪により48年ぶりに釈放)となった。このほど袴田巌氏の再審無罪が確定したが、事件発生から58年という長期にわたった冤罪事件である。検察の立証は、事件から1年2か月後にみそタンクから見つかった5点の衣類にもとづいて変更され、証拠として採用された自白調書は1通のみで、44通は排除されるなど不自然さの目立つ事件であった。しかし、この袴田事件の本質を見抜いていた人物がいた。袴田事件の一審の主任裁判官であった熊本典道氏である。熊本氏は、審理の後半で無罪を確信し、合義に際して無罪判決を起案したが、裁判長と右陪席を説得できなかったため、結局、怒りに震え泣きながら矛盾に満ちた350枚の死刑判決を書くことになった。せめてもの抵抗として、昭和43年9月に言渡された判決書に熊本の印鑑は自ら押さず、書記官が押すことになった。このとき熊本氏は職を辞す決意を固めており、昭和44年4月に依願退官した。

2、熊本氏は、司法試験をトップで合格し、裁判官としてエリート街道を進むはずであったが、昭和41年12月に静岡地裁に赴任させられ、袴田事件を主任裁判官として担当したことからその人生は大きく変わることになった。熊本氏は、昭和44年4月に依願退官して弁護士となり、年収1億円を稼ぐ売れっ子弁護士の時期もあったが、家庭的な問題もさることながら、袴田事件の死刑判決で「私は人殺しも同然です」と自責する重い十字架を背負ったことによって、家族も家も金も失い自殺を試みるまでに転落することになった。熊本氏は、 平成19年3月、当時70歳の時、裁判所法第75条の「評議の秘密」のルールを破り、袴田事件の元主任裁判官として、実は無罪の心証を持ちながら死刑判決文を書いたことを公にし、この告白は海外メディアでも大きく取り上げられた。晩年、熊本氏は自らの病床で袴田巌氏、姉ひで子さんと面会したが、その際の報道写真の対照的な姿は刑事裁判の残酷さを物語るものがあった。

3、無念の思いからの熊本氏の告白について、最高裁はコメントを控え、沈黙を守ったが、法律的な見解としては、元裁判官渋川満氏の見解が一番わかりやすい。それは「熊本氏の発言には2つの問題があり、1つは裁判所法第75条の評議の秘密の定めに違反するのではないか、もう1つは合議と裁判官の良心・独立の関係で少数意見の裁判官にとり良心・独立に反しないか、ということである。そして、熊本氏の発言は、評議の秘密の定めに明らかに違反するが、裁判官は一般職国家公務員と異なり、評議の秘密違反行為に罰則の定めも、退職後の秘密遵守義務の定めもない(国家公務員法第2条3項13号、同5項、同第100条1項、同第109条12号)。在官中なら懲戒(裁判所法第49条)または罷免(裁判官弾劾法第2条)の事由になりうるが、退職しているのでこれを行うのも無理。評議の秘密規定の制度趣旨は、裁判官の合議における自由な発言の保障であって裁判の威信を守ることではないが、合議は裁判の信用に深く関わるから、その内容を公表する発言は相当ではない。また、合議は、裁判官が常に良心に従い独立して意見を交わすことを基礎とし、これに基づき知識経験を補完して合議体としての裁判所の客観的な一つの意思にまとめ上げる仕組みであるから、裁判官の良心・独立に抵触することはないと考えられているが、少数意見の裁判官にとり良心・独立に反しとうてい看過できないとしたら、その評決に至る前に,回避(刑訴規則13条)などによりその合議体の構成からはずすよう求め、困難のときは、自ら退く(裁判官分限法第1条)ほかないように思う」(渋川満著「裁判官の理想像」2016年2月 日本評論社 210頁ないし212頁 )というものである。

4、模範的な見解ではあるが、よくよく考えてみると、袴田事件の場合、有罪であれば死刑しかありえない重大事件であるから、病気などやむを得ない理由以外で合議体の構成からはずれることは、職務の放棄と見做されかねないし、そのような異例の事態は、判決の内容に疑義を生じさせ、判決言渡し前に予断を生じさせることになる。また、現実問題として、現職裁判官には取り得ない対応である。法律上の規定からはともかく、現実的には職を辞するしか良心に従う方法はないように思われるが、そこまで突き詰めて真剣に考える裁判官がどれくらいいるだろうか。いずれにしろ、退官後に無罪を確信した死刑囚の再審に助力することは、なんら問題とはならないと考えるが、熊本氏のように現職時の心証や評議についての告白も、倫理的に許されるものと考える。

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