仕事への拘り
持続可能な未来についてですが、例えば今使うお金が無いという立場に為った自分を想像してみました。未来の為には問題が有るという事に対する判断をどうするだろうなと想像してみました。今使うお金の為に動く自分が想像出来ました、正直私は社会的に良いという事に全面的に従う事は時と場合によっては無視することもあるだろうなと思います。しかし極力賛同出来る事であれば共有も協力もしたいと思う部分も持ち合わせていると思えます。しかし社会全体が生きるのにきついと言われる現在の状況に対して社会の未来の為に協力できる人達がどの位いるのかとも疑念は感じます。人は空腹になってしまうと満腹時と同じことは考える事が出来難くなる存在だと思うので、社会の全ての人の善意を必要以上に期待したり強制したりという事が無く、無理なく社会のより多くの人達をその方向に導ける社会的基盤の整備が必要ではないかと思います。食うに困ったという人が無い様な地域経済の整備は必要最低限ではないかと思います。又人々が未来の自分の姿が見えるプランんが必要になります、そのプランニングを考え出す人も必要になります、持続可能な社会はプランニングされてきたこともあると思いますが、現在そのようなものが存在する事がそんなに多いとも思えません。場合によって地域の価値観を否定するものも多いのでは無いでしょうか、昔私が通うった小学校ですが、生徒数の減少により合併する事に為りました、その時小学校の名称を変更してしまいました、当然私はその小学校に関心が無くなりました。私以外の同級生に話を聞いたらやはり執着心が薄れたと言っていました。残念なことにその小学校は生徒数の減少により廃校になってしまいました。それでも関心は涌きまっせんでした。持続可能な社会の為にも愛情の持てる名前の有るプランニングがより多く考え出されることを期待したいと思います、名は体を表すといいます。