私のこと
障がいがあるとは、この社会で生きるときに、困りごとがあり、通常の生活を送ることができない状態のことをいいます。
例えば、車いす利用者が、エレベーターのない駅で電車に乗ろうとするとき、それは障害がある状態であるということです。
エレベーターが設置されていれば、車いすという道具を活用しておられる方が、電車に乗って好きなところへ出かけられる状態となります。
このコラムの初めてのページに書きました。本当の自由にも通じます。
安全に守られた枠の中で、自らが選択して生きられる世界。そういう環境が整った中では、みな個性をもった一人の人間として暮らすことができます。得意不得意を自らが知り、得意なことを担い、不得意なことは手伝ってくださいと頼める世の中であれば、みんなの困り感はかなり減ると思います。
最近、すぐに障がい児・者という診断名が付き、薬が処方されたり、福祉サービスに繋がったりします。
けれど、その困り感はどこからきているのでしょうか?
私も幼い時に聴覚の過敏があり、脳波の検査にも連れていかれましたが、田舎の小さな学校で育ったことや、そこでは飯盒でご飯を炊いたり、柿剥き大会や豆つまみ大会など、みんなが輝ける行事が多かったことで、特に困り感は感じなかったのだと思います。
本当に、その個人の障がいの問題なのでしょうか?
みんな、発達検査を受ければ、発達の凸凹は出てきます。だって、遺伝や性差、育った環境など、みんな違うのですから個性があって当然です。
枠が狭すぎないでしょうか?
みんな、誰でも、平均的になんでもできることを強要されすぎていないでしょうか?
みんな、自分の得意なことや楽しいことを思う存分できているでしょうか?
若い頃に外国人たちとの交流をしていた時、本当に楽だと思いました。ありのままの私を受け入れてくれた。自閉症のHさんとの出会いと同じでした。外国人は、私のいいところをサラッと言ってくれます。
細かいことで人を決めつけたりしなかったという思い出が残っています。
「いいよ」と受容し「いいね」と共感する場所を作りたいなと思っています。
そこでは、みんな、この世に生きる仲間。一緒に過ごせば、関わり方は自然とわかります。
そんな場所づくりのために、今、クラウドファンディングを行っています。
ご協力をお願いいたします。
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