障がいとは。クラファンやってます。
今回のテーマは「障がい児という考え方」です。
今までこのコラムには、私の学んできたことや経験してきた子育てについて書きました。
ここからは、私の幼少期のことを少し書かせて頂けたらと思います。
私は長兄とは18歳の年の差、次兄とは15歳の年の差があり、親が年をとってから生まれた子どもです。両親は大正時代と昭和一桁生まれで、その子育てはかなり厳格で、男尊女卑でした。
日々、兄と比べられる上に、男の子のように意見を言ってはいけない。口答えをしてはいけない。遅くに生まれた女の子だということで、絶対に甘やかして育てたりしない。と目の前で宣言されていました。
我慢をすること、人に合わせることは徹底的に教えられました。また、母の敷いたレールの上を素直に歩くことを求められました。それは、私にはとても苦しい日々でした。
幼い頃の私は、とても手先が不器用で、母が編み物や料理を教えてくれるのですが、必ず叱られ、暴言をはかれ「あっちにいきなさい。触らないで」と言われていました。
また、リンゴの皮をむく音がたまらなく嫌で、耳を塞いで逃げたり、服の襟のタグが痛くていつも切ってもらったりしていました。
8歳のある日、病院で注射をするときに、お医者さんの言っている言葉に納得ができず、天井を見上げてずっと考えていると「この子は少しおかしいから、脳波を調べてもらってください」と言われ、後日大きな病院で脳波の検査を受けました。脳波が少し乱れている。という説明を受けたことを覚えています。
また、その頃、両親がたびたび大きな喧嘩をし、母が死んでしまわないか心配で、いつも泣きながら喧嘩が終わるまで見ていました。母は、大きな喧嘩の後には実家へ帰ろうとするのですが、私は「父のご飯を作るために家に残りなさい」と置いて行かれそうになり、泣いて走って母を追いかけることもありました。
兄は私が物心がついたころには県外に暮らしており、私が小学校5年生の時に甥っ子が生まれました。
甥っ子が赤ちゃんの時には兄の帰省のたびに一緒に遊びました。赤ちゃんと遊ぶのはとてもかわいく、ピアノを習っていたこともあって、自ずと「保母さんになりたい」と夢を持ちました。母は珍しく、私の保育士への夢は理解をしてくれました。
これらの育ちが関係しているのか、私はとても自己肯定感の低い学生時代を過ごしました。
自分のことが大嫌いで、意見を述べる女性像に憧れを持ちながらも、女性は意見や考えを述べてはならないという教えの狭間で苦しみました。両親の喧嘩がひどい時には、頭が痛くて起き上がれなかったため、学校も休みがちでした。
自分のような人間が、大人になってもし結婚ができて子どもを産むことがあったとしたら・・・。
こんな人間が親になどなっていいのか?母のように子どもを傷つけることがあったら取り返しがつかない。
そんなことを考え、保育士になる夢を叶えるというより、母と子の関係を学びなおす意味で、短大の幼児教育学科へ進みました。
短大の時は両親から離れて暮らすこと、バイトで様々な人間関係を学ぶこと、それらがとても楽しかったです。
そして、短大の実習で、重度の自閉症者達と出会い、私を受け入れ許し認めてもらう体験をしたのです。
次回に続きます。