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コラム

なぜできない?という問いは、自分にも他人にも不要です

勉強方法

2016年4月18日

先日、ある人から相談を受けた時のこと。「うちの子はなんでできないのでしょうか?」
何ができない、どの程度できない、という以前の問題で、この問いかけをしても、誰も回答はできませんし、できない原因を探しても、それを克服したらできるようになるという保証書があるわけでもありません。必修の授業では、エラーチェックという項目が終わったあと、「こんなことをしてはダメよ集」をやるのですが、その前の心構えとして、「できないのネジを外しておく」ということを言っています。頭の中が「できない」を席巻すると、あまり良いことは起こりません。もちろん、「できないからこそ、できるまで努力する」というフレーズは美しく響きます。しかし、実際はそう思える人は希でり、その努力の仕方を教えてくれる人も滅多なことではいませんし、普遍的に通じるできないことをできるようにするための努力方法を知っている人がいた場合、その人は歴史に名前を残す人でしょう。残念ながら私は、そのような努力方法は知りません。いつかの未来に、一つの努力方法や心の持ち方で、数学でも、英語でも、仏教学でもできるようになるならば、その頃にはドラえもんが存在していることでしょう。

「なぜできない」と問うのがナンセンスである理由は、あまりにもたくさんありますので、ここで全部言い切れません。大雑把なものを一つあげるとすれば、人間は、圧倒的にできないことが多いからです。まず人間では届かないことがあります。簡単に言えば飛べません。細かいところで言えばビタミンCも作れません。これは人間以外ならできる生物がいます。しかし、その生物から、「どうしてできないの?」と嘲笑的に言われた場合のことを考える人は意外に少ないと思います。人間は歴史的に、できないことを、できる範囲で克服するか、あるいは他にできることを(無意識的に)伸ばして、(意識的に)見つけて、できないことをコーティングするかの選択をしてきました。日本人は、自然を克服することはできないし、無意味なことと考え(ヨーロッパの人は必ずしもそうでなかったようです)、例えば盆栽を作ったり、毎日庭に文様を入れてみたり、自然の土をこねて、われものの陶器を作ったりと、自然に無理なチャレンジをするのではなく、共存的に小さな抵抗をしてきたとも言えます。場合によってはいたずら心が見えるものもあります。作ってもすぐに消えたり、壊れることを無駄と思わず、むしろ尊いことと考えたと言えます。だからこそ、仏教の諸行無常や、一期一会などという言葉も浸透してきたのだと思います。
九州の震災に対しても、多くの人ができることをしています。できない人もいます。それに対してどうしてできないの?と問うことも少し違うと思います。今できることをすることが適切だとしても、後からできることもあります。今どうしてもできないことも、時もあります。この本で指摘される「評論家君」(指摘はするけれど、結局何もしない)のようになるのではなく、「できることを惜しみなく、余さずする」ことが重要であり、そこに量の多寡はそれほど重要ではありません。当たり前と言えば当たり前ですが、「必要なことを必要な分だけ過不足なく」を常に考えておくことが重要なのです。なぜできない?と問うのはこの対極にあると言ってもいいでしょう。


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