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薩野京子

死の準備を通して人生の輝かせ方を教える終活の専門家

薩野京子(さつのきょうこ) / 終活カウンセラー

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コラム

立ち止まる機会 ~ゼロ葬の衝撃~

2021年1月7日

テーマ:葬儀のこと

コラムカテゴリ:冠婚葬祭

 『家族遺棄社会』という書籍の中に、0(ゼロ)葬について詳述されている部分がある。火葬式(=直葬)→埋葬という流れが人が亡くなった際の一番簡潔な流れかと思えば、さらに簡潔なのが0葬だという。葬儀もしなければ、埋葬もしない。埋葬をしないどころか、火葬後遺骨を持ち帰らない。持ち帰らない遺骨は自治体の合祀対象となる。火葬までの段取りももちろん最低限だ。
 とうとうここまで来たかと、心がひんやりする思いだ。
 読み進めると、0葬を推進している葬儀社の代表の方がこのビジネスを始めた動機を、取材する著者に述べている。

 ’死後の世界も輪廻転生もない。死んだら無になるのに、なんでこんなに葬儀はお金がかかって、無駄な祭壇を飾らなければならないのだろう’
                     菅野久美子『家族遺棄社会』角川新書 2020年

 様々な縁が薄くなってきている世の中、きっとニーズは低くないのだろうという冷静な感想を自分に強いる傍ら、強烈に根拠を問いたい気持ちが湧き上がってしまった。

 一体どうやって、死後のことを知ったのですか、と。

 この地球上の人間は、誰1人死んだことがない。
 「死んだら無・終わり」という信条の人がいるのと同様に、「死後生がある」という信条の人も存在している。そして、死後生の有無は1+1=2のような、この世の理(ことわり)ほど明確ではないはずだ。そのため、出版される本に――、つまり公に個人の信条を断言する勇気は私にはない。
 おそらくは断言できる彼の方が純粋で、私が公言できない理由には、ある程度の謙虚さとある程度の狡さが混在しているだろう。
 しかし、今もこうして言葉を公に発する時の態度としては、確かでないことは断言しないか、個人の信条であることを申し添えるというのが礼儀である、と信じている。

 そのような信条から生まれた新たな葬儀ビジネスは、同じ考えを持った顧客に支持されているようである。一人で完結する無縁社会であるから、一番面倒でないこの葬り方が(いや葬ってすらいないが)いずれ葬儀全体を席巻すると上述の代表は豪語している。
 葬儀は血縁関係の最後の砦と言ってもいい。今、それを失いつつある。果たしてこのムーブメントそのものが、さらなる無縁社会化の片棒を担いでしまうことは推測しているのだろうか。

 例えば、ある独居の高齢者が亡くなり、付き合いのない甥や姪しか血縁者がいなかったとする。甥や姪はおじおばの消息も知らずに生きている中、いきなり聞き覚えのない自治体担当者から訃報が届いた場合などは、この方法も仕方がないのかもしれない。
 しかし、それなりに生前の繋がりがあり、故人に何らかの想いがある人にとっては、ゼロ葬を選択した場合、後から墓参りすら出来ず、その想いの行き場がない。いや、故人を偲ぶ人はいないのだからと甥や姪が決めつけたとしたら、想像力の欠如から故人の過去を全否定していることになる。
 当たり前だが、故人にも若い頃があった。
 社会人時代の繋がり、近所の人との繋がりが本当に全くなかっただろうか。本当に故人に感謝や親しみを持ったことのある人はいないのだろうか。

 対照的な死の扱い方を、一つ紹介しておく。
 メキシコには「死者の日」という死者への想いを語り合う「祝祭」の日があるそうだ。アメリカで暮らすあるメキシコ生まれの女性が、お腹の中で亡くなった子供への気持ちが整理できず、夫と共に「死者の日」のメキシコへ旅立つ。そこでの気持ちを綴った次のような著述を見つけた。

 ’死者に捧げるための手の込んだ祭壇、街や民家の軒先にあふれる髑髏や骸骨の飾り。心は激しく揺さぶられたが、同時に、カリフォルニアではどこを探しても見つからなかった平穏も感じた。
「メキシコに来たとたん、ああ、ここで存分に悲しめばいいんだと思った。ここなら受け止めてもらえる。周囲の人たちに居心地の悪い思いをさせずにすむ。ここなら身構えずにすむ」’
         ケイトリン・ドーティ『世界のすごいお葬式』池田真紀子訳 新潮社 2019年

 要するに、思う存分死を悼まなければ区切りはつかなかった。記述がないので憶測であるが、胎児死亡ということで一般的な葬儀がなかった可能性が高い。その上ほかの人に気遣って元気な振りをしていた結果、気持ちの収まりがついていなかったのである。

 ここに、一つの示唆がある。

 直葬やゼロ葬が主流になり、社会の時流に従ってそれらを選んでしまったとする。故人との関係が本当に希薄なら、大きな問題はないのかもしれない。しかし、故人と何らかの関係性を持っていた人にとっては、気持ちの収まりのつく場所が得られず、後々さまざまな問題を引き起こす可能性があると最後に主張しておきたい。
 葬儀の規模が(コロナ禍を別にしても)どんどん小さくなっていることは、以前の葬儀費用が不透明で高価だったことが一因であるのは、もちろん承知している。
 しかし、葬儀そのものの存在を危うくしてしまう昨今の動きには危惧を抱かざるを得ない。
 そもそも葬儀とは何のためのものだったか。有史以来、世界中の人間が脈々と行ってきたことを日本人はやめようとするのか。
 一度冷静に振り返り、考えてみるのもよい頃ではないだろうか。
 

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